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巻第2(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第2-176~184

訓読

176
天地(あめつち)と共に終へむと思ひつつ仕へまつりし心 違(たが)ひぬ
177
朝日照る佐田(さだ)の岡辺(をかへ)に群れ居(ゐ)つつ我が泣く涙やむ時もなし
178
み立たしの島を見る時にはたづみ流るる涙止めぞかねつる
179
橘(たちばな)の島の宮には飽(あ)かぬかも佐田(さだ)の岡辺(をかへ)に侍宿(とのゐ)しに行く
180
み立たしの島をも家と棲(す)む鳥も荒(あら)びな行(ゆ)きそ年(とし)かはるまで
181
み立たしの島の荒礒(ありそ)を今見れば生(お)ひざりし草(くさ)生(お)ひにけるかも
182
鳥座(とぐら)立て飼ひし雁(かり)の子 巣立(すだ)ちなば真弓(まゆみ)の岡(をか)に飛び帰り来(こ)ね
183
我(わ)が御門(みかど)千代(ちよ)常(とこ)とばに栄(さか)えむと思ひてありし我(わ)れし悲しも
184
東(ひむがし)のたぎの御門(みかど)に侍(さもら)へど昨日(きのふ)も今日(けふ)も召す言(こと)もなし

意味

〈176〉
 天地とともに永遠にと思いながらお仕えしてきたのに、こんなことになろうとは。
〈177〉
 朝日が照る佐田の岡辺に群がって近侍しながら、われらの泣く涙はやむ時もない。
〈178〉
 皇子がよくお立ちになったお庭を目にするたびに、降る雨のように流れ出てくる涙が止めようにも止められない。
〈179〉
 橘の島の宮にお仕えするだけで足りなかったのだろうか。佐田の岡辺にまで侍宿しに行くことになろうとは。
〈180〉
 皇子がよくお立ちになったお庭を家として住み着く鳥よ、ここを見捨てないでおくれ。せめて年がかわるまで。
〈181〉
 皇子がよくお立ちになったお庭の荒磯を今見てみると、前には生えていなかった草が生えている。
〈182〉
 鳥小屋を作って飼っていた雁の子よ、巣立っていったなら、皇子が鎮まっておられる真弓の岡に飛んで帰って来ておくれ。
〈183〉
 われらが御殿は、永久に栄え続けるとばかり思っていた私であるのに、ああ、悲しい。
〈184〉
 東のたぎの御門に伺候しているけれど、昨日も今日もお召しなるお言葉もない。

鑑賞

 草壁皇子が薨(こう)じた時、舎人らが捧げた挽歌23首(171~193)のうちの9首です。「舎人」は、宮中の護衛や雑役に従事する下級役人のこと草壁皇子は、天武天皇亡きあと、皇后(のちの持統天皇)が次代の天皇と恃(たの)んだ、ただ一人の皇子でしたが、28歳の若さで世を去ってしまいます。皇子に仕えてきた舎人たちは衝撃と悲しみに沈み、多くの挽歌を残しました。

 
176の「天地と共に終へむとは、天壌無窮というと同じ意で、上代の文献には用例の多い語。「終へむ」は、一生を終えよう、添い遂げよう。「む」は意志の助動詞。「仕へまつりし」は、お仕え申し上げてきた。「まつり」は、謙譲の補助動詞。「心違ひぬ」は、予期に反した結果になった。「ぬ」は完了の助動詞で、取り返しのつかない事態になったという断念の響きがあります。

 
177の「朝日照る」は単純な実景というより、日の皇子(日並皇子)の名辞と関りがあると見られます。朝日のように輝かしかった皇子の生前や、その宮の神々しさを暗示します。「佐田の岡辺」は、皇子の殯宮がある場所。正式には「真弓の岡」で、「佐田の岡辺」は舎人らが奉仕する立場から使用される表現だといわれます。「我が」の原文「我等」は、その場の人々の意で、多数の舎人の状態を示しています。皇子の遺骸を島の宮から佐田の岡へ移す時の歌と見られます。

 
178の「み立たし」は「立つ」の敬語で、お立ちになった。「島」は、池や築山のある庭。「にはたづみ」は、雨水がたまって庭などににわかに現れて流れる水の意で、涙の比喩として「流るる」にかかる枕詞。単なる「しずく」ではなく、地面を激しく流れる「にはたづみ」に譬えたところに、感情の激しさが表れています。「止めぞかねつる」の「つる」は「ぞ」の係り結び。

 
179の「橘」は地名で、明日香村橘。「島の宮」があったと伝わる現在の島の庄は、橘の地域内であったと考えられています。「飽かぬかも」の「かも」は疑問で、物足りないからだろうか。「侍宿しに行く」は、宿直をして守護するために。主君の亡骸に付き添い、お守りする儀式的な任務を指します。180の「家と棲む鳥」は、その島を自分の家として住み着いている鳥たち。水鳥などを指すと解釈されます。「荒び」は、疎んじて遠ざかること、自然の手に戻ってしまうこと。「な行きそ」の「な~そ」は、禁止。

 
181の「島の荒磯」は、ここでは庭園の池の水際にある石。「生ひざりし草」は、以前は生えていなかった雑草。「生ひにけるかも」は、生えてしまっていることよ。「ける(気づき・詠嘆)」+「かも(詠嘆)」で、変わり果てた姿への驚きと悲しみが重なっています。182の「鳥座」は、鳥小屋。「巣立ちなば」は、成長して巣立ってしまったならば。「帰り来ね」の「ね」は希求の助詞で、どうか飛んで帰ってきておくれ。

 
183の「千代常とばに」は、永遠に変わることなく。「栄えむと」は、栄えていくだろうと。「我れし悲しも」の「し」は強意の副助詞、「も」は詠嘆の終助詞。184の「東のたぎの御門」の「たぎ」は、水が激しく流れる「たぎつ」と同義で、東門の近くに川の水が注ぎ落ちる場所があったと想像できます。「侍へど」は、伺候して詰めているけれども。「召す言」は、お召しの言葉。この歌は、舎人たちの作中、もっとも具体的で一途な悲しみにあふれていると評されています。なお、草壁皇子の墓は、奈良県高取町佐田にある束明神古墳とする説が有力です。
 


挽歌について

 死は人間が避けることのできない事象の一つであり、古来、身近な人の死や敬愛する人の死、そして、やがて訪れる自らの死を、どのように捉え克服していくのかが、文学に託された一つの課題であったといえます。平安時代から現代に至るまでの、日本人の死葬儀礼や死生観に深く結びついてきたのは主に仏教ですが、仏教が伝わる以前の上代には、わが国独自の古い死生観に基づく儀礼がとり行われ、それらを反映する神話や歴史叙述、歌謡や和歌が記されました。

 『万葉集』にも、人の死に関わる歌が多く収載されています。『万葉集』は、雑歌・相聞・挽歌という三大部立を基本構造として持ち、人の死に関わる歌は主に「挽歌」の部に収められています。つまり『万葉集』における「挽歌」は、天皇や宮廷に関わる公的儀礼歌である「雑歌」や、恋の歌である「相聞」と並ぶ重要な位置を占めていたのです。ここから、当時の人々が死や死葬文化をいかに重要視していたかが分かります。ただ、平安期以降の勅撰和歌集では、人の死に関わる歌は哀傷(または哀傷歌)の部に収められ、挽歌という部立名は使われなくなりました。従って、挽歌は多くの和歌集のうち『万葉集』だけにしか見えない呼称となっています。

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