| 訓読 |
185
水(みな)伝ふ礒(いそ)の浦廻(うらみ)の岩つつじ茂(も)く咲く道をまたも見むかも
186
一日(ひとひ)には千(ち)たび参りし東(ひむがし)の大き御門(みかど)を入りかてぬかも
187
つれもなき佐田(さだ)の岡辺(をかへ)に帰り居(ゐ)ば島の御橋(みはし)に誰(た)れか住まはむ
188
朝ぐもり日の入(い)り行けばみ立たしの島に下(お)り居(ゐ)て嘆きつるかも
189
朝日(あさひ)照る島の御門(みかど)におほほしく人音(ひとおと)もせねばまうら悲しも
| 意味 |
〈185〉
水際に沿う磯辺にいっぱい咲いている岩つつじ、その道を再び目にすることがあろうか。
〈186〉
ご生前は、一日にあれほど何度も出入りしていた東の大きな御門。今では、悲しみのために入りかねることだ。
〈187〉
縁もゆかりもなかった佐田の岡辺に帰ってお仕えする身となったが、皇子がおられた島の宮のお池の御橋には誰がとどまるのだろうか、とどまる者はいない。
〈188〉
朝曇りで日が陰っていくので、皇子がよくお立ちになったお庭に下り佇んで、嘆いている。
〈189〉
朝日が照る島の御殿は重苦しく、人の気配も全くなくて、まことに心悲しい。
| 鑑賞 |
草壁皇子が薨(こう)じた時、舎人らが捧げた挽歌23首(171~193)のうちの5首です。「舎人」は、宮中の護衛や雑役に従事する下級役人のこと。草壁皇子は、天武天皇亡きあと、皇后(のちの持統天皇)が次代の天皇と恃(たの)んだ、ただ一人の皇子でしたが、28歳の若さで世を去ってしまいます。皇子に仕えてきた舎人たちは衝撃と悲しみに沈み、多くの挽歌を残しました。
185の「水伝ふ」は、水際に沿う。「礒の浦廻」の「磯」は石、「浦廻」は浦のあたりで、池の岸の入り込んだ所を、海の浦になぞらえて呼んだ称。池や川などに、海の名称を移して用いるのは当時の風(ふう)でした。「岩つつじ」は、岩間に咲くツツジ。「茂(も)く咲く」の「茂く」は、繁く盛んに。「またも見むかも」の「かも」は、反語。またもみることがあろうか、ない。
186の「一日には千たび参りし」は、一日に千回も参上した。「千たび」は実数ではなく、それほど頻繁に、心を尽くして幾度も通い詰めたという誇張表現。「東の大き御門」は、島の宮の東側の正門。「入りかてぬかも」の「かてぬ」は「〜することができない」という不可能の意で、入ることができない、入りかねる。「かも」は、詠嘆。主君がいなくなった今、門をくぐることへの心理的な抵抗や、主のいない宮殿の虚しさが凝縮されています。
187の「つれもなき」は、何のゆかりもない。「佐田の岡辺」は、殯宮がある場所。「帰り居ば」は、帰ってとどまっていたら。「島の御橋」は、島の宮の庭園の池に架けた橋。「誰れか住まはむ」の「誰」は、舎人をさしたもの。「か」は反語的な疑問。いったい誰がとどまるというのか(いや、もう誰もとどまるはずがない)。
188の「朝ぐもり」は、朝、空が曇っていること。「日の入り行けば」は、日が陰ったので。「日」に、亡くなった皇子の面影を重ねているという説もあります。「み立たし」は「立つ」の敬語で、お立ちになっていた。「島」は、島宮の庭園。「下り居て」は、下り立って、じっとそこに座り込んで。「嘆きつるかも」の「かも」は詠嘆で、嘆いたことであるよ。
189の「朝日照る」は、島の宮の門を讃える語。かつてこの門が朝の光を浴びて活気に満ちていた様子を暗示します。「島の御門」は、島の宮の御門。「おほほしく」は、ぼんやりとして、心が晴れないさま。「人音もせねば」は、人の気配や、話し声、足音などが全くしないので。「まうら悲しも」の「ま」は接頭辞で強調。「うら悲し」は心の奥底からしみじみと悲しいこと。「も」は、詠嘆。

天武天皇以後
686年 天武天皇が崩御
686年 大津皇子の変
689年 草壁皇子が病死
690年 天武天皇の皇后だった鸕野讃良皇女が持統天皇として即位
690年 高市皇子を太政大臣に任命
694年 藤原京に遷都
696年 高市皇子が死去
697年 草壁皇子の遺児、軽皇子が皇太子に
698年 持統天皇が軽皇子に譲位、文武天皇が15歳で即位
702年 持統上皇が崩御
707年 文武天皇が崩御
707年 文武天皇の母、阿倍皇女が元明天皇として即位
710年 平城京に遷都
715年 文武天皇の姉、氷高皇女が元正天皇として即位
724年 文武天皇の皇子、首皇子が聖武天皇として即位
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