| 訓読 |
204
やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ) 高(たか)光る 日の皇子(みこ) ひさかたの 天(あま)つ宮に 神(かむ)ながら 神(かみ)といませば そこをしも あやに恐(かしこ)み 昼はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 臥(ふ)し居(ゐ)嘆けど 飽(あ)き足らぬかも
205
大君(おほきみ)は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の五百重(いほへ)の下に隠(かく)りたまひぬ
206
楽浪(ささなみ)の志賀(しが)さざれ波しくしくに常(つね)にと君が思ほせりける
| 意味 |
〈204〉
天下を支配せらるる我が主君、高く光り輝く天皇の皇子は、天上の御殿に神々しくも神として鎮まりになられた。そのことを無性に恐れ畏み、昼は昼中、夜は夜中、伏して悲しみ嘆いているけれども、いつまでたっても嘆き足りない。
〈205〉
わが大君は神でいらっしゃるから、天雲が幾重にも重なる向こうにお隠れになった。
〈206〉
志賀の浜のさざ波が絶え間なく打ち寄せるように、永く世にありたいと君は思っていらっしゃったのに。
| 鑑賞 |
弓削皇子(ゆげのみこ)が亡くなった時に置始東人(おきそめのあずまと)が作った歌。弓削皇子は、弓削皇子は天武天皇の第9皇子で、長皇子の同母弟。持統天皇の皇太子を選定する会議で、軽皇子(文武天皇)を立てることに異議をとなえようとし、葛野王(かどののおおきみ)に叱責され制止されたという経緯があります。本来であれば皇位継承順位第一位となるはずだった兄の長皇子を思っての行動だったと推測されています。文武天皇が即位した後は失意の境遇にあり、あまつさえ病弱でもあったこともあってか、文武天皇3年(699年)7月に、母や兄に先立って27歳の若さで薨去しました。この歌の作者の置始東人は、弓削皇子の舎人だったとみられます。
204の「やすみしし」は「我が大君」の枕詞。「高光る」は「日」の枕詞。「ひさかたの」は「天」の枕詞。「天つ宮」は、天上にある宮。「神ながら」は、神そのままに。「神といませば」は、神として天上にましますので。「そこをしも」の「しも」は、強意。「あやに」は、無性に、言いようもなく。「昼はも日のことごと夜はも夜のことごと」は、昼は終日、夜は終夜。「臥し居」は、臥していて。「飽き足らぬ」は、心が満ち足りない。「かも」は、詠嘆。歌の殆ど全部が成句からなっており、作者の手腕がみられないことから、儀礼的に強いて作ったものとみられます。窪田空穂は、「作者に手腕があれば、皇子に関しての何らかの特殊なことに言い及び得られたろうと思われるのに、それが全くないのである。しかし皇子に対しての尊崇の精神は十分にあって、言葉をつつしみ、多くをいうまいとしている態度は感じられる」と述べています。
205の「神にし座せば」の「し」は、強意の副助詞で、神でいらっしゃるので。「天雲の五百重の下に」の「五百重」は、限りなく深く重なっていることの表現。幾重にも重なる雲の向こう側(天上界)に。「隠りたまひぬ」は、お隠れになった。貴人の死を「隠れる」と表現する忌避表現。
206の「楽浪」は、琵琶湖の西南岸一帯。「志賀」は、大津市の北部。「さざれ波」は、さざ波。「しくしくに」は、しきりに。「常にと君が面思ほせりける」の句からは、皇子が「常にある」ことを始終念願していたことが察せられます。生前の皇子の歌(242)の諦めきったような表現の心底には、生への執着、また皇位への欲望があったに相違なく、それが端無くもこの挽歌に表出されています。「大君は神にし座せば」という限定的な慣用句を捧げられていることは、兄の長皇子とともに血統の高貴さだけは衆目の一致していたことを示しています。

天武天皇の子女
皇子
高市皇子/草壁皇子/大津皇子/忍壁皇子/穂積皇子/舎人皇子/長皇子/弓削皇子/新田部 皇子(生年未詳)/磯城皇子(生没年未詳)
皇女
十市皇女/大伯皇女/但馬皇女/田形皇女/託基皇女/泊瀬部皇女(生年未詳)/紀皇女(生没年未詳)
【PR】
|
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |