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巻第2(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第2-95

訓読

95
吾(あれ)はもや安見児(やすみこ)得たり皆人(みなひと)の得がてにすとふ安見児得たり

意味

〈95〉
 私は今まさに、美しい安見児を娶(めと)った。世の人々が容易には得られない、美しい安見児を娶ったぞ!

鑑賞

 内大臣・藤原鎌足が、采女(うねめ)の安見児(やすみこ)を娶ったときに詠んだ歌です。采女というのは、天皇の食事に奉仕した女官のことで、郡の次官以上の者の子女・姉妹の中から容姿に優れた者が選ばれました。身分の高い女性ではなかったものの、天皇の寵愛を受ける可能性があったため、天皇以外は近づくことができず、臣下との結婚は固く禁じられていました。この歌は、鎌足が安身児という采女を我が物にした喜びの歌であり、もちろん天智天皇の許しを得てのことでしょう。「安見児得たり」を2度繰り返しているなど、我を忘れて欣喜雀躍している姿が目に浮かぶようであり、これほど恋の喜びが率直にうたいあげられた歌は珍しいものです。

 一方では、この歌が詠まれた背景には次のような事情があったと見る向きもあります。当時、天智天皇は大友皇子を後継者にしたいと考えていたものの、大友の母は采女の出身で、身分的な問題があった。そこで天智は鎌足に安見児を与え、さらにこの歓びの歌を満座で披露させることによって、采女に対する評価を高めようとした、というものです。いずれにしても気になるのが、この歌の前の93・94にある、鏡王女に対する鎌足の愛はどうなったのでしょうか。ひょっとして、鏡王女は鎌足の妻となった後も、天智天皇を思い続けていたのでしょうか。91・92にある天智天皇と鏡王女の恋愛の歌からの流れから、ずいぶんと想像をたくましくさせられるところです。もっとも、鏡王女と安見児を同一人とみる説もあり、そこから不比等皇胤説も強調されるようです。

 「もや」は、感動の助詞「も」と「や」の複合形。「安見児」の「児」は愛称で、現在で言えば「安見ちゃん」のようなもの。「皆人」は、特定の集団に属するすべての人。『万葉集』では、不特定多数の人々の場合は「人皆」と言って区別しているといいます。「かて」は、できる、なし得る。「に」は否定の助動詞「ず」の連用形で、「かてにす」は、なし得られない。
 


藤原鎌足の略年譜

614年 誕生
644年 蹴鞠の会を通じて中大兄皇子に近づく
645年 中大兄皇子と共に、蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)
    内臣に任命される
646年 改新の詔が発せられる
663年 白村江の戦で日本軍が新羅に敗れる
664年 鎌足の提案で防人・水城を置く
667年 都が大津に遷される
668年 中大兄皇子が天智天皇として即位
669年 死去(死の直前に藤原姓を賜る)

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采女とは

宮中の女官の一つで、天皇、皇后に近侍し、炊事や食事などの日常の雑事に従事した者。采女の字は中国後宮の制に倣ったものであるが、「うねめ」の語義については「うなゐめ」すなわち処女の意、「氏之女」の転じたものなど諸説がある。大化前代では、諸国の国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)などの地方豪族が一族の子女を天皇に奉仕させ、令制下では諸国の郡司一族の子女のうちで13歳から30歳までの容姿端正な者を選んで出仕させて宮内省采女司が管轄し、後宮の水司、膳司などに置かれた。本来はもっぱら天皇に奉仕すべき役割をもち、原則として終身の職であった。采女は原則として後宮の雑役に従う下級女官であるが、実際には女帝のもとにあって政治に参与したり、天皇の寵を得て子女を産むものなどもあって、奈良時代には女官として重要な位置を占めていた。采女貢進単位は奈良時代において、兵衛と同じく郡であったので、「牟婁采女」などのように郡名をもって呼ばれるのが原則だった。平安以降は国が貢進単位となるなど変質したが、名目的には江戸時代まで続いた。 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。