| 訓読 |
大君(おほきみ)は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほ)りせるかも
| 意味 |
天皇は神でいらっしゃるので、天雲にそそり立つ雷の上に仮の宮殿を造っていらっしゃる。
| 鑑賞 |
題詞に「天皇(すめらみこと)、雷(いかづち)の岳(をか)に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」とあります。ここでの天皇は天武天皇、持統天皇、文武天皇のいずれかとされますが、公的な作歌活動において、人麻呂と持統天皇の結びつきが強いことから、持統天皇とする見方が有力です。「大君は神にしませば」の「し」は、強意の副助詞。天皇を現人神(あらひとがみ)として讃える常套句であり、天武天皇に対し用いられたのが最初とされます。「天雲の」は「雷」の修飾語(枕詞とする説も)。「雷」は、雷丘で、明日香村にある高さ10mばかりの小さな丘ですが、この歌のことばの力によって雲をつく雄大な岳のように感じられます。『日本霊異記』には、ここで雄略天皇の命によって小子部栖軽(ちいさこべのすがる)が雷を捕らえたと伝えています。「廬る」は、仮宮を建ててこもり精進すること。国見の準備のためか。それを人麻呂は、「天雲の雷の上に廬りせるかも」と、人間にはできない行為のように表現しています。
斎藤茂吉はこの歌について次のように述べています。「雷丘は藤原宮から半里ぐらいの地であるから、今の人の観念からいうと御散歩ぐらいに受け取れるし、雷丘は低い丘陵であるから、この歌をば事々しい誇張だとし、あるいは『歌の興』に過ぎぬと軽く見る傾向もあり、あるい支那文学の影響で腕に任せて作ったのだと評する人もあるのだが、この一首の荘重な歌調は、そういう手軽な心境では決して成就し得るものではないことを知らねばならない。抒情詩としての歌の声調は、人を欺くことの出来ぬものである、争われぬものであるということを、歌を作るものは心に慎み、歌を味わうものは心を引き締めて、覚悟すべきものである。現在でも雷丘に立てば、三山をこめた大和平野を一望のもとに視界に入れることが出来る。人麻呂は遂に自らを欺かず人を欺かぬ歌人であったということを、吾等もようやくにして知る」。
また、「神にしませば」の詩句に関して、作家の田辺聖子は次のように述べています。「ほかに類歌も多いのだが、この思想はそのころの時代精神の産物でもあろう。天智期から始まった律令体制は、天武・持統の御代にいたって完成整備され、古代日本はかつてない統一と結束をみた。天皇を中心に国たみの心はいまや一つになった。安定と繁栄がもたらされ、国のエネルギーが燃え上がった。そのとき人々は天皇に『現人神(あらひとがみ)』のイメージを見る。それは昭和初年の軍国時代の、硬直した『現人神』思想、暴圧、禁忌の象徴としての『神聖冒すべからざる』現人神としてではなかったように私には思われる。古代の人が天皇を『神にしませば』と讃えるとき、もっといきいきした、素朴な、敬虔な信仰がある。天智帝は犀利(さいり)な明主であったが、やや急進的にすぎて、民心はあきたらぬものを感じていた。天武帝はその声なき民の声を背負って起ち、しかもひとたび起つや一挙に近江朝廷を屠(ほふ)って、人々の新しい輿望を担った。都を造り、政治態勢をととのえる。民族の期待にみちた視線は天皇にそそがれる。『大君は神にしませば』という讃め歌が民の間から起るのは自然ななりゆきであった」。
この歌が巻第3「雑歌」の冒頭歌とされたのは、公的な儀式などでよく披露される歌だったからではないかと見られています。

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