| 訓読 |
242
滝の上の三船(みふね)の山に居(ゐ)る雲の常(つね)にあらむと我(わ)が思はなくに
243
大君(おほきみ)は千歳(ちとせ)にまさむ白雲(しらくも)も三船(みふね)の山に絶ゆる日あらめや
244
み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに
| 意味 |
〈242〉
滝の上高く、三船の山に雲がかかっている。その雲のようにいつまでも生きられようとは、私は思わないことだ。
〈243〉
皇子は永久に世にましますことであろう。白雲もまた、三船の山になくなる日があろうか、ありはしない。
〈244〉
吉野の三船の山にいつも沸き立っている雲のように、いつまでも生きられようとは思わないことだ。
| 鑑賞 |
242は、弓削皇子(ゆげのみこ)が吉野に遊ばれたときの歌。「滝」は激流の意で、離宮のあった宮滝のあたり。「三船の山」は、宮滝にかかる橋から上流右手に見える標高487mの山。集中に7例あり、うち4例が「滝の上の」を冠して歌われています。「居る雲の」は、かかっている雲のように。「常にあらむと」の「む」は推量で、いつまでも生きていようとは。「思はなくに」の「な」は、打消の助動詞。「く」は「な」を名詞形とするために添えたク語法。なおこの歌の解釈は「三船の山にかかる雲がいつまでもあるとは思わないけれども」とも取れます。
243は、春日王(かすがのおおきみ:伝未詳)が和した歌。「大君」は、弓削皇子を指します。「絶ゆる日あらめや」は、絶える日があるだろうか、いや、決してない。「め」は推量の助動詞「む」の已然形、「や」は反語の終助詞。244は、弓削皇子の「或る本の歌」とする歌。左注には『柿本人麻呂歌集』に出ているとあります。「み吉野」の「み」は、吉野を讃える接頭語。「立つ雲の」は、湧き上がる雲のように。「常にあらむ」は、不変であるだろう、永久にそのままであるだろう。
弓削皇子には、持統天皇の皇太子を選定する会議で、軽皇子(文武天皇)を立てることに異議をとなえようとし、葛野王(かどののおおきみ)に叱責され制止されたという経緯があります。本来であれば皇位継承順位第一位となるはずだった異母兄の長皇子(ながのみこ)を思っての行動だったと推測されています。文武天皇即位後は失意の境遇にあり、あまつさえ病弱でもあったことから、242の歌は、その後の死を覚悟したものと解釈できないではありません。これを心配したとみられる長皇子が弟に贈った歌が、巻第2-130に載っています。
〈130〉丹生(にふ)の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛(こひた)し我が背(せ)いで通ひ来(こ)ね
・・・丹生の川の瀬は渡ろうとせずに、まっすぐに私のところにやって来なさい。恋しさに心痛む我が弟よ。
弓削皇子の歌にある「吉野」は持統天皇を指した隠語であり、また長皇子の歌の「丹生の川瀬は渡らずて」は、吉野の急流(持統)は無視して、との寓意が含まれているともとれます。皇嗣選定会議が行われた3年後の文武天皇3年(699年)7月、弓削皇子は27歳?の若さで、病気により兄や母に先立って没しました。歌の配列から、弓削皇子のこの歌はその死までの半年以内に作られたものと推定されています。

弓削皇子ついて
弓削皇子(673年?~没年699年)は、天武天皇の第6皇子で、母は天智天皇の娘の大江皇女。同母兄に長皇子。持統天皇10年(696年)の太政大臣・高市皇子薨去後の、皇太子を選ぶ群臣会議で、軽皇子(後の文武天皇)をたてることに異議をとなえようとし、葛野王(かどののおう)に叱責され制止されたことで知られます。本来であれば皇位継承順位第一位となるはずだった同母兄の長皇子を推薦しようとしたのだと推測されています。
『万葉集』には8首の歌が残されており、これは天武天皇の皇子のなかで最多。異母姉妹の紀皇女を思って作った歌、額田王との問答歌などがあります。また、それとは別に『柿本人麻呂歌集』に皇子に献上された歌が5首残されており、交流の跡が偲ばれます。なお、皇子は、文武天皇3年(699年)7月に27歳?の若さで、兄や母に先立って没しましたが、『万葉集』を根拠に、軽皇子の妃であった紀皇女と密通し、それが原因で持統天皇によって処断されたとの説があります。
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