| 訓読 |
もののふの八十氏河(やそうじかは)の網代木(あじろき)に いさよふ波の行く方知らずも
| 意味 |
宇治川の網代木に遮られてただよう水のように、人の行く末とは分からないものだ。
| 鑑賞 |
柿本人麻呂が近江国から大和へ上った時、宇治川の辺(ほとり)で詠んだ歌で、ここは、近江国と大和の往復には必ず通る所だったとされます。またこの歌は、巻第1-29の「近江の荒れたる都を過ぐる時」と同じ時の作かと言われています。「もののふ」は、文武百官のことで多くの氏族に分かれているところから、多数を意味する「八十」にかかる枕詞。また、「もののふの八十氏」の「氏」を同音の川の名の「宇治」に転じて掛けています。「網代」は、川魚を獲るしかけ。「網代木」は、網代をつくるための棒杭のことで、宇治川のものは有名でした。「いさよふ」は漂う、たゆたう。「知らずも」の「も」は、詠嘆。
宇治川という豊かな大河のなかに、網代の上にいさよう波という些かなものに目をとめて詠んだ歌ですが、「行く方しらずも」との余情に富んだ結句から、この歌の作意については諸説あります。すなわち、① 近江の旧都を感傷したなごりから、無常観を寓したもの、② 波に魅入られて実景・実感をすなおに詠んだだけのもの、③ 実景に対する感情がよむ者に自然と無常観を感じさせるもの、などというものです。大方の支持を得られているのは③の捉え方のようですが、一方では、仏教的無常観などという悟りすました諦観によるのではなく、もっと生身の人間が感ずる栄枯盛衰への悲嘆慟哭と鎮魂がこの歌の主題であるとの指摘もあります。
文学者の犬養孝は、「あまりにも有名な歌として実景説、無常観説など論ぜられているが、こころみに宇治の川べりに立ってこの歌を誦すれば、『もののふの八十』の序も感動を深めてゆく大事な律動をなしているし、流れきたって杭などに停滞し、ためらいすいこまれてゆく水流の実相からは、千古に変らぬ詩人の遠い眼(まなこ)、深い心をじかに思わないではいられない」と言っています。山から平地に出た宇治の地のあたりは川の流れが速く、これらの感慨を抱くにふさわしい所だといいます。いずれにしても、旅の不安をも表出したものであり、人麻呂以前にこの種の歌はなく、旅の歌のモデルになるものとなっています。

柿本人麻呂の略年譜
662年 このころ生まれる
672年 壬申の乱
680年 このころまでには出仕していたとみられる
686年 天武天皇崩御
689年 このころ巻第1-29~31の近江荒都歌を作る
689年 草壁皇子没。巻第2-167~170の殯宮挽歌を作る
690年 持統天皇の吉野行幸。巻第1-36~37の吉野賛歌はこの時の作か
691年 泊瀬部皇女・忍壁皇子に奉る挽歌(巻第2-194~195)を作る
692年 持統天皇の伊勢行幸。都に留まって巻第140~42の歌を作る
692年 軽皇子(文武天皇)が宇陀の阿騎で狩猟した際に、巻第1-45~49の歌を作る
694年 藤原京へ遷都
696年 高市皇子没。巻第2-199~201の殯宮挽歌を作る
697年 文武天皇即位
700年 明日香皇女没。巻第2-196~198の殯宮挽歌を作る(作歌年が明らかな最後の歌)
702年 持統上皇崩御
707年 文武天皇崩御、元明天皇即位
710年 平城京へ遷都
724年 このころ亡くなる

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