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巻第3(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第3-267

訓読

267
むささびは木(こ)ぬれ求むとあしひきの山の猟夫(さつを)にあひにけるかも

意味

〈267〉
 むささびが、林間の梢を飛び渡っているうちに、猟師に見つかって獲られてしまった。

鑑賞

 志貴皇子(しきのみこ)の歌。「木末」は、梢。「あしひきの」は「山」の枕詞。山に掛かるのは、山の足(裾野)を長く引いた山の像、あるいは足を痛めて引きずりながら登るの意とする説があります。「猟夫」は、山の幸をとる男、猟師。むささびは高い所から斜め下へしか飛べないため、木の枝に駆け上ってから飛び出します。そこを狙って猟師が射落とすわけですが、そうしたことから、この歌には、高い地位を望んで身を滅ぼした人、すなわち大津皇子(おおつのみこ)が天皇の位を望んだ(とされた)ために処刑されたことを喩えたのでは、という寓意説もあります。もしそうであるなら、この歌には多少の揶揄がこもっています。

 寓意説をとる立場は、この歌が、近江の歌の後に並び、むささびという異常な題材である点、また前述の寓意とでも見ない限り、このような歌をなぜここに載せたのかの理由が分からない、と主張します。しかしながら、
斉藤茂吉によれば、「この歌には、何処かにしんみりとしたところがあるので、古来寓意説があり、徒に大望をいだいて失脚したことなどを寓したというのであるが、この歌には、むささびのことが歌ってあるのだから、第一にむささびのことを詠み給うた歌として受納れて味わうべきである。寓意の如きは奥の奥へ潜めておくのが、現代人の鑑賞の態度でなければならない。そうして味わえば、この歌には皇子一流の写生法と感傷とがあって、しんみりとした人生観相を暗指(あんじ)しているのを感じる」。

 
志貴皇子は、天智天皇の第7皇子(生年未詳、没年は715年または716年)。柿本人麻呂と同時期の人で、湯原王、白壁王らの父。藤原京時代の天武朝ではすでに成年に達していたとみられ、天武8年(679年)5月に、吉野宮における有力皇子の盟約に参加しています。続く持統朝では不遇であったらしく、撰善言司(よきことえらぶつかさ)に任じられたほか要職にはついていません。しかし、皇子の薨去から50年以上を経た宝亀元年(770年)、息子の白壁王(しらかべのおおきみ)が62歳で即位し光仁天皇となって天智系が復活したのに伴い、春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしらしめすすめらみこと)と追尊、また田原天皇とも称されるようになりました。『万葉集』には短歌6首を残し、流麗明快で新鮮な感覚の歌風は高く評価されています。
 


天智天皇の子女

皇子
大友皇子(弘文天皇)/ 建皇子/ 川島皇子/ 志貴皇子
皇女
大田皇女/ 鵜野皇女(持統天皇)/ 御名部皇女/ 阿閇皇女(元明天皇)/ 山辺皇女/ 明日香皇女/ 新田部皇女/ 大江皇女/ 泉皇女/ 水主皇女 

志貴皇子の歌風

 『万葉集』に収められた志貴皇子の作品数はわずか6首と決して多くはありませんが、初期万葉(天武・持統期)から奈良時代への過渡期において、独自の光彩を放つ歌人として知られています。志貴皇子の歌風の主な特徴は、以下の3点に集約されます。

  1. 繊細でみずみずしい自然観照と抒情
    志貴皇子の最大の魅力は、自然のささやかな変化や美しさを、素直かつ繊細な感覚で捉える点にあります。持統期の宮廷歌人(柿本人麻呂など)に見られる重厚・荘厳な讃歌のスタイルとは一線を画し、個人的で瑞々しい抒情が際立ちます。
  2. 清澄・気品とあわれ(寂寥感)の調和
    皇位継承の激しい政治的荒波(壬申の乱以降の複雑な皇統の動向)の渦中にありながら、政治的な表舞台からは一歩引き、風雅に身を寄せた彼の生き様が歌にも色濃く影を落としています。派手な修辞に頼らず、澄んだ眼差しと品格の中に、どこか孤高の寂寥感が漂います。
  3. 伝統的様式と個人抒情の洗練された融合
    初期万葉の素朴な直情さと、盛唐詩の影響も感じさせるような知的で洗練された歌風の橋渡しをしました。後の大伴家持らに至る「繊細な自然詠」の先駆者として評価されています。 

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。