| 訓読 |
282
つのさはふ磐余(いはれ)も過ぎず泊瀬山(はつせやま)いつかも越えむ夜(よ)は更けにつつ
284
焼津辺(やきづへ)に我(わ)が行きしかば駿河(するが)なる阿倍(あへ)の市道(いちぢ)に逢ひし子らはも
| 意味 |
〈282〉
まだ磐余の地も過ぎていない。こんなことでは、泊瀬の山を越えるのはいったいいつになるだろう。夜はもう更けてしまったというのに。
〈284〉
焼津のあたりに私が行ったとき、駿河の阿倍の市で偶然出逢ったあの若い女は、今頃どうしていることか。
| 鑑賞 |
春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)の歌。春日蔵首老は、弁記(べんき)という法名の僧だったのが、大宝元年(701年)、朝廷の命により還俗させられ、春日倉首(かすがのくらのおびと)の姓と老の名を賜わったとされる人物です。和銅7年(714年)正月に、従五位下。『懐風藻』に五言詩1首を載せ、「従五位下常陸介春日蔵老」とあり、「年五十二」(卒年)とあります。『万葉集』には8首の歌が載っています(「春日歌」「春日蔵歌」と記されている歌を老の作とした場合)。
282の「つのさはふ」は、蔦の岩に這う様子から「磐余」にかかる枕詞。「磐余も過ぎず」は、まだ磐余の地さえ通り過ぎていないのに。「磐余」は、藤原京のすぐ東、奈良県桜井市池之内と橿原市池尻の一帯。「泊瀬山」は、桜井市の初瀬にある山。大和から伊勢や東国へ向かう際の険しい山越えの難所です。「いつかも越えむ」の「か」は疑問、「も」は詠嘆で、いつ越えられようか。「夜は更けにつつ」の「つつ」は、継続進行の助詞ですが、「につつ」で逆接の意を表しています。夜はどんどん更けていっているというのに。何らかの急用で、泊瀬山を越えようと都を出立したらしく、越えるべき泊瀬山はまだ先にあるのに、手前の磐余ですでに夜が更けてしまったことに焦燥感を深めています。山々に囲まれた谷あいの泊瀬は「隠(こも)り処(く)の泊瀬」と言われる通り、さぞ暗かったことでしょう。
284の「焼津辺」は、静岡県焼津市。日本武尊が賊に襲われ火を放って難を逃れたという名高い事蹟のあった地で、元は「ヤキツ」だったようです。「駿河なる」は、駿河にある。「阿倍」は、国府のあった静岡市。「市道」は、歌垣が行われた所。「子らはも」の「ら」は、親愛などの情を示す接尾語。「は」は係助詞、「も」は詠嘆。「はも」は、眼前にないものを思いやる場合に用います。公務によって当地を訪れた時の歌とみられますが、「焼津」「駿河」「阿倍」という3つの地名を取入れ、それらが「児らはも」に集中されているので、濃い地域色とともに、その土地への好感をあらわした歌となっています。また、阿倍の市で出逢った女に心惹かれたのは、市ではすばらしい女と出逢い、共寝するものだという幻想があったからでしょう。

藤原京
持統天皇8年(694年)12月から文武天皇を経て、元明天皇の和銅3年(710年)3月の平城京遷都までの都。飛鳥の西北方、大和三山(畝傍山・耳成山・香具山)に囲まれた、奈良県橿原市醍醐町・高殿町を中心とする一帯。日本の首都として、初めて中国的な条坊制を採用した本格的な都で、歴史的にも重要な都とされます。それまでは、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われるのが慣例でしたが、3代の天皇にわたって使用され続けたことが大きな特徴としてあげられます。なお、藤原京という名は、大正2年(1913年)に藤原京研究の先駆となった喜田貞吉が『藤原京考証』という論文において使った仮称が、その後の論文などで多用され定着したものです。
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