| 訓読 |
299
奥山の菅(すが)の葉しのぎ降る雪の消(け)なば惜(を)しけむ雨な降りそね
| 意味 |
〈299〉
奥山の菅の葉を押し伏せて、降り積もった雪が消えるのは惜しかろう、雨よ降ってくれるな。
| 鑑賞 |
題詞に「大納言大伴卿の歌一首 未だ詳ならず」との記載があり、大伴旅人の作とみる説があるものの、この巻は大体年代順となっており、その比較考証から、作者は旅人の父である大伴安麻呂とされます。大納言であるために、尊んで名を記さず、三位以上の敬称である卿を用いたもので、本巻の撰者にとって問題になることではなかったとみえます。したがって、「未だ詳ならず」の注記は後人が加えたものとわかります。
「奥山」は、人里離れた深い山。「菅」は、カヤツリグサ科の多年草のことで、深山や高山に生えているのを歌った歌が多くあります。「しのぎ」は、押さえつけて、押し分けて。菅の細い葉が、降り積もる雪の重さに耐えかねて、しなっている様子を表します。「消なば惜しけむ」の「消なば」は、消えてしまったら。「惜しけむ」の「む」は、推量の助動詞で、きっと惜しいことだろう。「雨な降りそね」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「ね」は、念押し・願望の終助詞。国文学者の西宮一民は、「雪を鑑賞している点、旅中で雪よ降るなと歌う歌が多いのに対して、悠揚たる風格をしのばせる」と評しています。
大伴安麻呂は、右大臣・長徳(ながとこ)の第6子、旅人・田主・宿奈麻呂・坂上郎女らの父にあたります。672年の壬申の乱では、叔父の馬来田(まぐた)、吹負(ふけい)や兄の御行(みゆき)とともに天武側について従軍して功をあげました。天武政権になって後は功臣として重んぜられ、新都のための適地を調査したり、新羅の使者接待のため筑紫に派遣されたりしました。和銅7年(714年)5月に死去した時は、大納言兼大将軍・正三位の地位にあり、佐保に居宅があったため、「佐保大納言卿」と呼ばれました。

大伴安麻呂の略年譜
生年不詳
大伴長徳(大化の改新時の右大臣)の子として生まれる。
天武天皇元年(672年)
壬申の乱に従軍。大海人皇子(のちの天武天皇)の挙兵に際し、弟の大伴吹負らとともに大海人皇子側(吉野側)に従軍し、戦功を挙げる。
天武天皇8年(679年)
壬申の乱における功績により、功封100戸を与えられる。
天武天皇13年(684年)
八色の姓の制定に伴い、連(むらじ)姓から「宿禰(すくね)」姓を賜り、大伴宿禰となる。
持統天皇9年(695年)
官位制度の改定等に伴い、直広肆(ちょくこうし:従五位下に相当)の冠位を授かる。
文武天皇4年(700年)
直広参に進む。
大宝元年(701年)
大宝律令の施行に伴い従四位下に改叙され、大宰帥(だざいのそち)に任じられる。同年中に正四位下へ昇進。
慶雲2年(705年)
朝政に参画する参議に任じられる。
慶雲4年(707年)
中納言に昇進し、公卿の列に加わる(従三位)。藤原不比等らとともに政権の中枢を担う。
和銅元年(708年)
大納言に昇進し、正三位を授けられる。大伴氏の首長として最高位に達する。
和銅2年(709年)
蝦夷の動向に対応するため、陸奥鎮守将軍を兼任して東北地方の軍事を管轄する。
和銅7年5月1日(714年6月17日)
大納言正三位のまま薨去。正二位の官位を贈られる。
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