| 訓読 |
310
東(ひむがし)の市(いち)の植木(うゑき)の木垂(こだ)るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり
311
梓弓(あづさゆみ)引き豊国(とよくに)の鏡山(かがみやま)見ず久(ひさ)ならば恋しけむかも
| 意味 |
〈310〉
東の市の並木が成長して垂れ下がるまで、あなたに逢わずにいたのだから、恋しく思うのは当然だ。
〈311〉
梓弓を引いて響(とよ)もすという豊の国の鏡山、この山を久しく見ないようになったら、さぞ恋しくてならないだろう。
| 鑑賞 |
310は、門部王(かどべのおおきみ)の歌。門部王は、長皇子(ながのみこ:天武天皇の子)の孫で、和銅3年(710年)従五位下、伊勢守、出雲守、弾正尹、右京大夫などを歴任。天平6年(734年)2月に天皇隣席のもとに行われた朱雀門の歌垣では頭を務め、また、「風流侍従」として長田王・佐為王・桜井王ら10余人と共に聖武天皇に仕えました。天平11年(739年)に兄の高安王とともに、大原真人の氏姓をあたえられ、臣籍降下。天平17年(745年)従四位上大蔵卿で没。『万葉集』には5首の歌を残しています。
ここの歌は「東の市の樹を詠みて作る」歌。「東の市」は、平城京の東西二つにに置かれた市のうちの東の市。平城京左京八条二坊にあり、今の奈良市杏(からもも)町にあたります。「植木」は、道に植える木。「木垂る」は、木が生育して枝葉の垂れる様子のこと。ただし原文「木足」であることから、木の枝葉が垂れるのではなく充足する意に解する説もあります。「久しみ」は「久し」のミ語法で、原因・理由を示すもの。「うべ」は、もっともだ。この歌は、王が4年の国守の任期を終え、京に戻って東の市の並木を見て詠んだ歌とされます。市には緑陰をつくるために並木が植えられ、実が食用になる木が選ばれました。「杏」の地名から、ここに植えられていた木は杏であっただろうと推定されています。
311は、鞍作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)が、豊前国を去り、京に上る時に作った歌。「豊前」は、福岡県東部と大分県北西部。鞍作村主益人は、伝未詳。「村主」というのは古代の姓で、古代朝鮮語の村長の意の「スグリ」からきたという説が有力であり、おもに渡来人の下級の氏として与えられました。巻第6-1004にも同じ作者の歌があり、その左注には、内匠寮の大属(宮中の造作をつかさどる内匠寮の四等官)だったことが記されています。
「梓」は、カバノキ科の落葉高木で、これで作ったのが「梓弓」。「梓弓引き」は、梓弓を引っ張って響もす意で「豊国」を導く序詞。「豊国」は、豊前、豊後に分かれる前の称で、福岡県東部と大分県全域。「鏡山」は、福岡県田川郡香春町にある小山。神功皇后を祀る鏡山神社があります。「見ず久ならば」の「見」は、鏡の縁語。「恋しけむ」は、「恋し」の未然形「恋しけ」に推量の助動詞「む」のついたもの。「かも」の「か」は疑問、「も」は詠嘆の助詞。遠い国に赴任していた身が、いざ帰京となると、二度と見ることがないかも知れず、見慣れた鏡山への愛着が一入であることを詠じたものでしょう。

【PR】
風流侍従
聖武朝初期に「風流侍従」とと称せられる人たちが存在していたことが、『藤原武智麻呂伝』に見え、六人部王、長田王、門部王、佐為王、桜井王、石川朝臣君子、阿倍朝臣安麻呂、置始工ら8人の名が記されています。ただし、この「風流侍従」は律令制における正式の官の呼称ではなく、聖武天皇の新宮廷に始まった新しい文化である「風流」をリードしていく役割を担っていたとされます。
神亀6年(729年)に国家的イベントとして催された朱雀門における歌垣において、門部王、長田王がその頭を務めたとの記録が残っています。さらに「風流侍従」の役割としては、歌舞の整備が推し進められるなかで、地方歌舞を宮廷歌舞に取り込むこともあったのではないかともみられています。
|
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |