| 訓読 |
322
皇神祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 敷きいます 国のことごと 湯はしも 多(さは)にあれども 島山の 宜(よろ)しき国と こごしき 伊予の高嶺(たかね)の 射狭庭(いさには)の 岡に立たして 歌思ひ 辞(こと)思ほしし み湯の上の 樹群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代(よ)に 神さびゆかむ 行幸処(いでましどころ)
323
ももしきの大宮人(おおみやびと)の熱田津(にきたつ)に船乗(ふなの)りしけむ年の知らなく
| 意味 |
〈322〉
天皇たる神の命が治めていらっしゃる国のすべてに、出湯は多くあるけれど、島も山も立派な国として、険しい伊予の高嶺の神祭りの岡に天皇がお立ちになり、歌を案じ言葉を練られた、出湯のほとりの木々を見ると、もみの木はすくすくと育っており、鳴く鳥の声も変っていない、ますます遠く後の代までも神々しくなっていくだろう、天皇がお出ましになったこの地よ。
〈323〉
むかし都の人々が熱田の港で船出をしたという年は、いったいいつのことだろう。
| 鑑賞 |
山部赤人が、伊予の温泉(松山市の道後温泉)に行って作った歌です。道後温泉は、少奈毘古那命(すくなひこなのみこと)と大穴持命(おおあなもちのみこと)という二柱の神に由来を持ち、病を癒す効果があるとされ、景行・仲哀・舒明・斉明・天智・天武の各天皇や、神功皇后、聖徳太子が訪れたと伝わります(風土記逸文)。赤人は、いつどういった用事でで伊予を訪れたのかは明らかでありませんが、彼が訪れた最も西の地であり、温泉の風物から行幸の往時を追懐しています。
322の「皇神祖の神の命」の「皇神祖」は天皇の祖先の意で、現人神(あらひとがみ)として敬われるため、命(みこと)の尊称が付されます。「敷きいます」は、御支配になる。「ことごと」は「ことごとく」の古語。「湯はしも」の「しも」は、強意の係助詞。「さは」は、多く。「島山」は、島や山。「こごし」は、岩がごつごつとして険しい。「射狭庭の岡」は、温泉の裏にある標高 70m ばかりの小丘ですが、「伊予の高嶺の」という修飾語がついているのは、伊予の高嶺の名にふさわしい石鎚山脈、特に道後の東北に近い高縄山塊の末端にこの岡が位置しているからと考えられています。「歌思ひ辞思ほしし」の原文「歌思辞思為師」の訓みは種々ありますが、歌の詞を案ずる意。「み湯」の「み」は、美称の接頭語。「臣の木」は、樅木(もみのき)のことで、樹高40m以上にもなる常緑の大高木です。『万葉集』で樅木が詠まれているのはこの1首のみです。「遠き代」は、ここは将来。「神さび」は、神々しくなって。
323の「ももしきの」は「大宮人」の枕詞。「大宮人」は、宮廷に仕える官人。「熱田津」は、当時は海水の通じていた道後温泉の近くだったようですが、こんにちのどこかは分かっていません。現松山港東方の古三津(ふるみつ)説、松山市北部の和気・堀江説、温泉西方の御幸寺(みきじ)山麓説、運河説などがあります。「船乗り」は、船出のために乗船すること。「知らなく」の「なく」は、打消しの「な」に「く」を添えて名詞形にしたもの。
赤人は、かつてこの地に、舒明天皇が皇后(のちの斉明天皇)と共に行幸されたこと(639年)や、661年に斉明天皇の船団が新羅に出兵した際、ここ熱田津に寄港したことに触れています。このことは、巻第1-8の歌の左注によって知ることができます。しかし、この歌が詠まれたのはそれから数十年後であり、赤人が「知らなく」と言うほどに時代は過ぎています。

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四国について
四国は国生みの神話の「大八島国」の一つで、「次に伊予の二名(ふたな)の島を生む。この島は身一つにして面(おも)四つあり。面ごとに名あり」(『古事記』)とあって伊予・讃岐・阿波・土佐の四国をあげている。大和に比較的近いところとしてはやくに開け中央に知られていたわけだ。
万葉に見える瀬戸内海の往還はほとんど山陽沿岸によっていたから、四国の万葉故地はわずかとなって、歌・題詞・左註を延べて所出の地名は徳島県(阿波)に1、香川県(讃岐)に約10、愛媛県(伊予)に約15、高知県(土佐)に2を数えるだけである。四国への航路は、こんにちのように播磨灘のただなかかを過ぎるようなことはなく、淡路島に西岸沿いに渡るか、山陽沿いにいって備讃海峡の島づたいに四国側に渡っていたようである。
難波を出ればやがて阿波の山々は航行の目標ともなる。「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山かけて漕ぐ舟泊まり知らずも」(巻6-998)はそれで、阿波唯一の歌だ。讃岐ではいまの香川県坂出市東南方の綾歌郡国分寺町(もとの安益郡)にあった国庁との往復もあったろう。万葉によれば舒明天皇の行幸もあった。「さみねの島」の人麻呂の歌はあまりにも名高い。伊予の道後温泉ははやくからきこえてたびたびの行幸があり額田王や赤人の歌に知られている。土佐は当時、中央の文化に遠く配流の国となっていて、天平11年(739年)石上乙麻呂がここに配流されるときの歌に土佐の名が出てくる。「さだの浦」「伏越(ふしこえ)」その他を当国にもとめる説があるがこれは疑わしい。確実な故地はないにしても近世の万葉学者・鹿持雅澄(かもちまさずみ)を生んだところだ。
~『万葉の旅・下』犬養孝著/平凡社から引用
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