| 訓読 |
326
見渡せば明石(あかし)の浦に燭(とも)す火(ひ)の穂(ほ)にぞ出(い)でぬる妹(いも)に恋ふらく
371
意宇(おう)の海の河原(かはら)の千鳥(ちどり)汝(な)が鳴けば我(わ)が佐保川の思ほゆらくに
| 意味 |
〈326〉
遠く見渡すと、明石の浦に海人の燭す火が見える。その炎のようにはっきりと表に出てしまった、妹への恋しさが。
〈371〉
意宇の海に続く河原の千鳥よ。お前が鳴けば、わが故郷の佐保川が思い出される。
| 鑑賞 |
門部王(かどべのおおきみ)の歌。326は「難波にありて、海人の燭光を見て作る」歌。「見渡せば」は、難波の海辺から彼方を見渡す意。「燭す火」は、漁師の燈す漁り火。上3句は実景であると共に「穂にぞ出でぬる」を導く序詞。「穂にぞ出でぬる」は、表に現れること。「ぞ」は強意(「そ」とも)。「恋ふらく」は「恋ふ」に「く」を添えて名詞形にしたもの。この句が主語で、前句の述語と倒置しています。この歌について窪田空穂は、「門部王が難波へ旅をされて、そうした際身分のある人のする、傍らに女を侍らせることをしていたとみえる。夜、楽しみのために、海を望んでいられた時、難波より西の方、明石方面に見える漁火を眺めながら、その女に、軽い心をもって詠みかけられた懸想の歌と取れる」と述べています。
371は、出雲守に任ぜられていた時の「京を思ふ」歌。「意宇の海」は、島根県の中海で、当時の国庁は中海の西南隅の地にありました。「河原」は、国庁近くの東を流れて中海に注ぐ意宇川の河原とされます。「千鳥」は、川原や海岸などの水辺に棲んで、小魚を食べる小鳥の総称。実際のチドリ科のチドリは、小さな愛らしい鳥です。「汝が鳴けば」は、人麻呂の「夕浪千鳥汝が鳴けば・・・」(266)の歌を下敷きにしています。「佐保川」は、平城京を流れ、初瀬川と合流して大和川となる川。「思ほゆらく」は、「思ほゆる」に「く」を添えて名詞形にしたもの。この歌について窪田空穂は、「出雲にあって千鳥の声を聞き、それに刺激されて旅愁を催し、故里である奈良の佐保川の千鳥を連想しきたるというので、その心はきわめて自然である。あらわし方も、『飫の海の河原の千鳥』とおおらかにいって、国府のほとりの意宇川の河原を明らかにあらわしているところ、また『吾が佐保河の』と、佐保河に『吾が』を添えるというおおらかな方法によって、故里を具象的にあらわしているところなど、手腕の認められるものである」と評しています。
門部王は、長皇子(ながのみこ:天武天皇の子)の孫で、和銅3年(710年)従五位下、伊勢守、出雲守、弾正尹、右京大夫などを歴任。天平6年(734年)2月に天皇隣席のもとに行われた朱雀門の歌垣では頭を務め、また、「風流侍従」として長田王・佐為王・桜井王ら10余人と共に聖武天皇に仕えました。天平11年(739年)に兄の高安王とともに、大原真人の氏姓をあたえられ、臣籍降下。天平17年(745年)従四位上大蔵卿で没。『万葉集』には5首の歌を残しています。

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風流侍従
聖武朝初期に「風流侍従」とと称せられる人たちが存在していたことが、『藤原武智麻呂伝』に見え、六人部王、長田王、門部王、佐為王、桜井王、石川朝臣君子、阿倍朝臣安麻呂、置始工ら8人の名が記されています。ただし、この「風流侍従」は律令制における正式の官の呼称ではなく、聖武天皇の新宮廷に始まった新しい文化である「風流」をリードしていく役割を担っていたとされます。
神亀6年(729年)に国家的イベントとして催された朱雀門における歌垣において、門部王、長田王がその頭を務めたとの記録が残っています。さらに「風流侍従」の役割としては、歌舞の整備が推し進められるなかで、地方歌舞を宮廷歌舞に取り込むこともあったのではないかともみられています。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |