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巻第3(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第3-335

訓読

わが行きは久(ひさ)にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵(ふち)にあらなも

意味

私が筑紫に行く期間は長くはないだろう。吉野の夢のわだは、瀬に変ることなく、帰ってきたときも淵であってほしいものだ。

鑑賞

 大伴旅人の歌。大宰府に赴任する直前の歌とされます。「我が行き」は、私の旅行。大宰府に赴任して大和を留守にすることを指しています。「久にはあらじ」は、そう長くはあるまい。大宰帥は任期の定まった官だったことから、それほど長い赴任ではないだろうと推測しています。「夢のわだ」は、奈良県吉野町の宮滝付近の淵の名で、離宮のやや上流あたりから川が大きく湾曲し、底が深くなっている所。流れが緩やかになるので、船を浮かべて遊覧でき、夢心地になるところから名付けられたとされます。「淵にあらなも」は原文「淵有毛」は難訓で、疑問、希望のいずれと見るかによっても訓みが分かれ、さまざまの説がありますが、ここは希望と見て「あらなも」としています。旅人は、いつか必ず再訪するので、「夢のわだ」に昔通りの姿で待っていてほしいと言っており、聖武天皇の吉野行幸に従駕したときに見た吉野宮滝の幽邃神仙の景趣は鮮烈で、忘れがたい魅力になったようです。

 吉野には、
持統天皇が31回も行幸しましたし、都が奈良に遷ってからも、聖武天皇は吉野に足を延ばして漢詩や和歌を作らせています。吉野といっても山中奥深くではなく、吉野川の流域、とくに宮滝とよばれるところが激流のうずまく神聖な場所で、多くの人々がそこに出かけました。古来聖地とされてきた上に、奈良時代には中国の神仙思想が入り込んできたために、よりいっそう神聖視が強くなり、仙境とみなされるようになりました。
 


大伴旅人の略年譜

710年 元明天皇の朝賀に際し、左将軍として朱雀大路を行進
711年 正五位上から従四位下に
715年 従四位上・中務卿に
718年 中納言
719年 正四位下
720年 征隼人持説節大将軍として隼人の反乱の鎮圧にあたる
720年 藤原不比等が死去
721年 従三位
724年 聖武天皇の即位に伴い正三位に
727年 妻の大伴郎女を伴い、太宰帥として筑紫に赴任
728年 妻の大伴郎女が死去
729年 長屋王の変(2月)
729年 光明子、立后
729年 藤原房前に琴を献上(10月)
730年 旅人邸で梅花宴(1月)
730年 大納言に任じられて帰京(12月)
731年 従二位(1月)
731年 死去、享年67(7月)

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。