| 訓読 |
しらぬひ筑紫(つくし)の綿は身に付けていまだは着(き)ねど暖(あたた)けく見ゆ
| 意味 |
筑紫の綿で作られた着物はまだ肌身につけて着たことは無いけれど、いかにも暖かそうに見える。
| 鑑賞 |
題詞に「沙弥満誓(さみまんぜい)、綿を詠む歌」とある1首です。「しらぬひ」は、語義未詳ながら「筑紫」の枕詞。一説には「領(し)らぬ霊(ひ)憑き(つ)く」意で「筑紫」に掛かるとも言います。「綿」を詠んだのは、当時、蚕の繭から紡いだ真綿(絹綿)は、筑紫の特産品の一つだったといい、『続日本紀』には、大宰府からの貢納の記録があります。都から来た作者は、異郷で産出されるふくよかな真綿を見て感動したのでしょう。ただし、この歌の解釈にはやや怪しいところがあり、「筑紫の綿」は筑紫の女を意味し、「筑紫の女をまだ抱いたことはないが、よさそうだ」の寓意だとする見方もあります。
沙弥満誓(生没年未詳)は笠氏の出身で、俗名は麻呂。和銅年間に美濃守として活躍、その政績を賞せられ、また木曽道を開き、養老年間には按察使(あぜち)として尾張・三河・信濃3国を管するなどして順調に昇進を重ねました。その後、元明上皇の病に際して出家入道を請い許され、以後は満誓と号しました。「沙弥」は剃髪していても妻子のある在家の僧をいいます。養老7年(723年)に造筑紫観世音寺別当として大宰府に下向、神亀4年(727年)の末頃に大伴旅人が太宰帥として赴任してくると、山上憶良らとともにいわゆる「筑紫歌壇」の一員となりました。『万葉集』には、筑紫で詠じた7首の短歌を残しています。
その満誓が亡くなった後に、彼が、寺婢(じひ:寺の奴隷のこと)だった女に子を生ませていたことが露顕しました。法では、僧が姦盗を犯すことは最も重い罪とされていたので、生前に露顕していれば大事になっていたはずです。なぜバレたかというと、満誓の5代後の孫が「自分たちが観世音寺の寺卑であるのは、先祖の満誓が生ませた子の子孫だからだ。どうか良民として認めてほしい」と訴えたからです。満誓が亡くなって130年ほど後のことです。
この成り行きには、草葉の陰の満誓もえらく驚いたことでしょうが、彼のこの歌が、単に「綿」を詠んだのではなく「怪しい」と評されるようになったのも、生前のセクハラ行為がバレたことが、少なからず影響しているのかもしれません。しかし、満誓が筑紫に下ったのは2月か3月の真綿を着る時期だったようで、「まだ着たことはないが」の表現が事実として認められること、また、大伴旅人主催の宴の一員として詠んだ歌であることから、筑紫特産による国讃めの歌と理解するのが穏当でしょう。

筑紫観世音寺
太宰府市にある観世音寺(かんぜおんじ)は、天智天皇の発願で、母・斉明天皇の供養のために創建されました。久しく造作が終わらず、養老7年(723年)、勅命によって沙弥満誓が長官としてその任に当たりました。ようやく完成し供養が行われたのは天平18年(746年)のことで、発願の時から80年あまりが経過していました。
その15年後に、僧に授戒をする「戒壇院」が設けられたことで観世音寺は、奈良の東大寺、下野の薬師寺と併せて日本の三戒壇の一つとなりました。最盛時には、49もの子院を擁したとされ、正式な僧侶として必要な戒律を授かるため、遠方からも多くの出家者が訪れたと言われています。
なお、元明上皇の病に際して出家した沙弥満誓でしたが、上皇崩御後に筑紫に赴いたのは、 上皇が観世音寺の完成に強い希望を持っていたことから、自ら希望して赴任したとの見方もあるようです。

(観世音寺)
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北九州について
北九州の諸地がその地勢上はやくから大陸との交渉をもち、新文化流入の門戸となって、すでに3世紀ごろまでに小国家群がつくられ、文化の黎明がつげられていたことはいうまでもない。4世紀ごろからしだいに大和朝廷の勢力下となり、7世紀天智天皇のとき、大宰府が内陸にうつされてからは、大宰府はまさに”遠(とほ)の朝廷(みかど)”となって、九州(筑紫)全体を総管するのみならず、国防・外交・貿易の拠点として、つねに西辺よりする文化の活力源となっていた。
万葉の筑紫もこの”遠お朝廷”を中心として展開する。少数土着の人の歌もなくはないが、ほとんどは中央派遣の官人群や海外派遣の使人らによる歌詠で、ことに神亀年間から天平にかけて太宰帥大伴旅人、筑前守山上憶良らを中心に、いわば筑紫歌壇が形成されたといってもいい時代は、筑紫万葉の最盛期で、それはまた西辺よりする万葉文学への活力源でもあった。官人らが”天ざかるひな”におかれて接する異郷の自然風土が、望郷・旅愁の場となるのはもちろん、風雅に遊び、生活に徹し、制作意欲を刺激されるのも、官人の意識を新たにするのもみな”天ざかるひな”をはなれてのものではない。そこに特異な万葉風土圏が形成されてくる。
大宰府のあった福岡県に万葉所出の地名の集中するのは当然のことであって、福岡県だけで歌・題詞・左註に出る地名延て130におよび、それに「筑紫」「西海」のような総名を延て加えれば計165ほどになる。さらに、地名を含まないこの地での歌も多い。故地の大部分は大宰府周辺の諸地や陸塊交通路、博多湾や玄界灘沿海地につづいている。
~『万葉の旅・下』犬養孝著/平凡社から引用
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