| 訓読 |
憶良(おくら)らは今は罷(まか)らむ子泣くらむその彼の母も吾(わ)を待つらむぞ
| 意味 |
私、憶良はもう失礼いたします。今ごろ家では子供が泣いているでしょう、その母親も私を待っていますから。
| 鑑賞 |
この歌は、山上憶良(やまのうえのおくら)が筑前守として大宰府にいた時の歌とされ、この前後に大宰帥(だざいのそち:大宰府の長官)の大伴旅人、防人司佑(さきもりのつかさのすけ)の大伴四綱、沙弥満誓等の歌があるため、大宰府における宴会の時の歌とみられています。題詞には、宴席から退出する時の歌とあり、憶良が宴席を中座する時の歌との見方がありますが、自ら名乗りをしての宴の「お開き」を告げる挨拶の歌と見るべきもののようです。
「憶良ら」の「ら」は複数の意味ではなく、自ら名乗るときに謙遜の意を表す接尾語で、今でいう「わたくしめ」の「め」のようなものです。自分の妻を「彼(こ)の母」と表現したところに、憶良ならではのおかしみがあります。しかし、「子どもが泣いて、妻も待っていますから・・・」というのは、この時、60歳を遥かに越えていた憶良には相応しくないため、「お開き」専用の歌代わりによく歌われていた一種の笑わせ歌だったと見ることもできます。なお、「その彼の母も」の原文「其彼母毛」の訓みは定まっておらず、「それその母も」「そもその母も」などの訓みも提唱されています。「待つらむぞ」の「らむ」は現在推量の助動詞で、待っていようぞ。歌は、計3回の「む」「らむ」と5つの「ら」音によって明るく軽快な調べとなっており、楽しく締めくくった宴席のようすが目に浮かぶようです。
斎藤茂吉は、憶良について次のように言っています。「憶良は万葉集の大家であるが、飛鳥朝、藤原朝あたりの歌人のものに親しんできた眼には、急に変わったものに接するように感ぜられる。その声調がいかにもごつごつしていて、流動の響きに乏しい。そういう風でありながら、どこかに実質的なところがあり、軽薄平俗になってしまわない。またそういう滑らかでない歌調が、当時の人にも却って新しく響いたのかもしれない。憶良は、大正昭和の歌壇に生活の歌というものが唱えられた時、いち早くその代表的歌人のごとくに取扱われたが、そのとおり憶良の歌には人間的な中味があって、憶良の価値を重からしめている」
憶良の歌には恋歌や叙景詩はなく、漢文学や仏教の豊かな教養をもとに、貧・老・病・死、人生の苦悩や社会の矛盾を主題にしながら、下層階級へ温かいまなざしを向けた歌が収められています。言語学者の犬養孝は、「旅人とはおよそ異なる家柄と、苦学力行の人柄と、儒教的教養にもとづく知性とは、あくまでも人生の現実生活に題材をとらえさせ、社会の矛盾・生活の苦難に目をむけて、道義的情熱の表出に、社会詩人・思想詩人の面目を発揮させた」と説明しています。

山上憶良の略年譜
701年
第8次遣唐使の少録に任ぜられ、翌年入唐。この時までの冠位は無位
704年
このころ帰朝
714年
正六位下から従五位下に叙爵
716年
伯耆守に任ぜられる
721年
東宮・首皇子(後の聖武天皇)の侍講に任ぜられる
726年
このころ筑前守に任ぜられ、筑紫に赴任
728年
このころまでに太宰帥として赴任した大伴旅人と出逢う
728年
大伴旅人の妻の死去に際し「日本挽歌」を詠む
731年
筑前守の任期を終えて帰京
731年
「貧窮問答歌」を詠む
733年
病没。享年74歳
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