| 訓読 |
世間(よのなか)を何に譬(たと)へむ朝開(あさびら)き漕(こ)ぎ去(い)にし船の跡(あと)なきごとし
| 意味 |
世の中を何に譬えたらよかろう。船が夜明けに漕ぎ去ったあとには何の跡形もなくなってしまう。人生もそんなものだろうか。
| 鑑賞 |
沙弥満誓(さみまんぜい)が、大伴旅人の「酒を讃める歌」(巻第3-338~350)に呼応して詠んだ作ともいわれ、すぐその次に載せられている歌です。旅人が言った「世間」を承けており、満誓は、世間を仏者のいう無常という面から捉え、上2句が自問、3句以下が自答した形になっています。「朝開き」は、港に泊まっていた船が夜明けとともに漕ぎ出すこと。「跡なきごとし」の「跡」は、航跡のこと。船の行く所に白波が立つが、すぐ消えて跡形がなくなることを言っています。当時、大宰府にあった満誓は、自然と海に接することが多かったところから、実際に目にした風景を譬えたのでしょう。ちなみに満誓が呼応した旅人の歌は、「生ける者つひにも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくあらな」(349)という歌です。
作者の沙弥満誓(生没年未詳)は笠氏の出身で、俗名は麻呂。和銅年間に美濃守として活躍、その政績を賞せられ、また木曽道を開き、養老年間には按察使(あぜち)として尾張・三河・信濃3国を管するなどして順調に昇進を重ねました。その後、元明上皇の病に際して出家入道を請い許され、以後は満誓と号しました。「沙弥」は剃髪していても妻子のある在家の僧をいいます。養老7年(723年)に造筑紫観世音寺別当として大宰府に下向、大伴旅人らのいわゆる「筑紫歌壇」の一員となり、万葉集には7首の短歌を残しています。
なお、この歌は、平安時代以降にもよく知られ、『拾遺集』『和漢朗詠集』などに掲載されていますが、多くは第3句・結句をそれぞれ「あさぼらけ」「あとの白波」としています。また、鴨長明は、『方丈記』に『拾遺集』にあるこの歌を引き、次のように記しています。「もし跡の白波にこの身を寄する朝には、岡の屋に行き交ふ船を眺めて満沙弥が風情をぬすみ、もし桂の風葉を鳴らす夕べには、尋陽(じんやう)の江を思ひやりて源都督(げんととく)のおこなひをならふ」(もし、世の中が分からないと思う朝は、宇治川岸の岡の屋に行き交う船を眺めては、沙弥満誓を気取り、もし風が桂の葉を鳴らす夕方は、白楽天の「琵琶行」に詠われた尋陽の江を思いやって、名手の桂大納言源経信〈かつらだいなごんみなもとのつねのぶ〉にならい琵琶を弾く)。

筑紫観世音寺
太宰府市にある観世音寺(かんぜおんじ)は、天智天皇の発願で、母・斉明天皇の供養のために創建されました。久しく造作が終わらず、養老7年(723年)、勅命によって沙弥満誓が長官としてその任に当たりました。ようやく完成し供養が行われたのは天平18年(746年)のことで、発願の時から80年あまりが経過していました。
その15年後に、僧に授戒をする「戒壇院」が設けられたことで観世音寺は、奈良の東大寺、下野の薬師寺と併せて日本の三戒壇の一つとなりました。最盛時には、49もの子院を擁したとされ、正式な僧侶として必要な戒律を授かるため、遠方からも多くの出家者が訪れたと言われています。
なお、元明上皇の病に際して出家した沙弥満誓でしたが、上皇崩御後に筑紫に赴いたのは、 上皇が観世音寺の完成に強い希望を持っていたことから、自ら希望して赴任したとの見方もあるようです。

(観世音寺)
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北九州について
北九州の諸地がその地勢上はやくから大陸との交渉をもち、新文化流入の門戸となって、すでに3世紀ごろまでに小国家群がつくられ、文化の黎明がつげられていたことはいうまでもない。4世紀ごろからしだいに大和朝廷の勢力下となり、7世紀天智天皇のとき、大宰府が内陸にうつされてからは、大宰府はまさに”遠(とほ)の朝廷(みかど)”となって、九州(筑紫)全体を総管するのみならず、国防・外交・貿易の拠点として、つねに西辺よりする文化の活力源となっていた。
万葉の筑紫もこの”遠お朝廷”を中心として展開する。少数土着の人の歌もなくはないが、ほとんどは中央派遣の官人群や海外派遣の使人らによる歌詠で、ことに神亀年間から天平にかけて太宰帥大伴旅人、筑前守山上憶良らを中心に、いわば筑紫歌壇が形成されたといってもいい時代は、筑紫万葉の最盛期で、それはまた西辺よりする万葉文学への活力源でもあった。官人らが”天ざかるひな”におかれて接する異郷の自然風土が、望郷・旅愁の場となるのはもちろん、風雅に遊び、生活に徹し、制作意欲を刺激されるのも、官人の意識を新たにするのもみな”天ざかるひな”をはなれてのものではない。そこに特異な万葉風土圏が形成されてくる。
大宰府のあった福岡県に万葉所出の地名の集中するのは当然のことであって、福岡県だけで歌・題詞・左註に出る地名延て130におよび、それに「筑紫」「西海」のような総名を延て加えれば計165ほどになる。さらに、地名を含まないこの地での歌も多い。故地の大部分は大宰府周辺の諸地や陸塊交通路、博多湾や玄界灘沿海地につづいている。
~『万葉の旅・下』犬養孝著/平凡社から引用
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