| 訓読 |
吉野なる夏実(なつみ)の川の川淀(かはよど)に鴨(かも)ぞ鳴くなる山陰(やまかげ)にして
| 意味 |
吉野の菜摘の川の淀んだあたりで鴨の鳴く声がする。山陰のあたりで、ここから姿は見えないけれども。
| 鑑賞 |
湯原王(ゆはらのおおきみ)が吉野で作った歌。湯原王は、天智天皇の孫、志貴皇子の子で、兄弟に光仁天皇・春日王・海上女王らがいます。天平前期、万葉後期の代表的な歌人の一人で、父の端正で透明感のある作風をそのまま継承し、またいっそう優美で繊細であると評価されており、家持に与えた影響も少なくないといわれます。兄弟の白壁王が聖武天皇の皇女(井上内親王)を妻として位階を進め、即位の約1年半後には、皇后や皇太子を廃して獄死させているのと比較すると、王は、人間らしい風雅の道を選んだらしくあります(本心や才能を隠しつつ政争から逃れ、一生無位だったともいわれます)。生没年未詳。『万葉集』には19首。
「吉野なる」は、吉野にある。「夏実の川」は、奈良県吉野町の吉野宮があった宮滝よりは上流、菜摘の地を流れる吉野川。この辺りで川が湾曲し、半島状となった地の尖端にあたるのが菜摘で、ここは吉野でも佳景とされ、集中に他にも歌があり、『懐風藻』の詩にも扱われています。「川淀」は、流れが淀んだところ。「鴨ぞ鳴くなる」の「なる」は「ぞ」の係り結びで連体形。斎藤茂吉は、「大景から小景へとしだいに狭められ、そこで鳴く鴨といういささかなものを捉え、結句の『山陰にして』は、一首に響く大切な句で、ここに作者の感慨がこもっている」と言っています。ニシテ止めの先駆をなすものとして、余情豊かでいかにもさわやかな響きの歌であり、『新古今集』にも収録されています。
大台ケ原から流れ出した吉野川は、蛇行しながら北西に流れ、五條市を抜けて和歌山に入り、そこから紀の川と名前を変えます。

吉 野
古くは「芳野」「美吉野」とも表記された吉野という地名は、普遍的なもので、「よい野」、すなわち、吉野川流域の広い地域を指し、最も狭くは吉野山を指します。吉野の自然の特徴は、水量豊かな吉野川と檜の木立に覆われた吉野山にあります。『万葉集』では、大和国にありながら「吉野の国」とあります。吉野川の上流の宮滝には吉野離宮跡があり、応神・雄略・天武・持統・文武・元正・聖武天皇が行幸し、とりわけ持統天皇は、在位中に31回も行幸しています。
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『懐風藻』
天平勝宝3年(751年9に成立した、現存するわが国最古の漢詩集。全一巻で120首の漢詩を収めています。撰者は未詳。作者は大友皇子から葛井広成までの64人で、天皇をはじめ、川島皇子、大津皇子、葛野王、僧の智蔵・弁正、石上乙麻呂らの諸臣。それらの作風は、中国、とくに六朝詩の影響が大きく、初唐の影響も見られます。序文には、天智天皇の御代には多くの詩編があったものの減尽したこと、近江朝の安定した政治による平和が詩文の発達を促し、多くの作品を生んだことが記されています。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |