| 訓読 |
378
いにしへの古き堤(つつみ)は年深み池の渚(なぎさ)に水草(みくさ)生(お)ひにけり
384
我(わ)が屋戸(やど)に韓藍(からあゐ)蒔(ま)き生(お)ほし枯(か)れぬれど懲(こ)りずてまたも蒔かむとぞ思ふ
| 意味 |
〈378〉
昔栄えた邸の庭の古い堤は、長い年月を重ね、池のみぎわには水草が生い繁っている。
〈384〉
わが家の庭に、鶏頭花を種から育てたところ枯れてしまった。けれども懲りずにまた種を蒔こうと思う。
| 鑑賞 |
山部赤人の歌2首。378は、題詞に「故(すぎにし)太政大臣藤原家の山池(しま)を詠む」歌とあり、藤原不比等が没した10年以上の後に赤人が詠んだ鎮魂歌です。何かの行事に際しての訪問だったと見られます。不比等は、薨じた時(養老4年:720年)には正二位右大臣でしたが、薨後に、元正天皇によって正一位太政大臣を賜りました。「藤原家」とあるのは諱(いみな)を書くのを憚った言い方で、尊称です。「山池」は、築山や池のある庭園のこと。
「いにしへ」は、ここは藤原不比等が生きていたころのこと。「年深み」は、年を久しくしての意。「年深し」は漢語的表現であり、また「池」の縁語でこう言ったものか。「渚」は、波が寄せ返す所、波打ち際。「水草」は、水辺に生える草の総称。「生ひにけり」の「に」は完了、「けり」は、詠嘆。赤人は往時の不比等を目にしていた、あるいは不比等の生前にこの邸を訪れたことがあったらしく、その旧居の庭園の荒廃ぶりを見て、時の移ろいの悲しみを強く感じ、それを具象的に表さずにはいられなくなったのでしょう。しかしながら、直接的に感傷を述べることを避け、また強い調べによることもできず、静かながらも細やかにその思いを表しています。
不比等の邸宅があったのは、今の法華寺(正式には法華滅罪之寺)がある所で、のちに不比等の娘、光明皇后がその跡に法華寺を建立しました。皇后が千人の病人の垢を流したという浴室があり、本堂に安置される本尊の十一面観音立像は、インドの仏師が皇后をモデルに、その美しさを刻んだといわれています。
384の「屋戸」は、家の敷地、庭先。ほかに「屋前・屋外」などと表記されます。「韓藍」は鶏冠草(とさかぐさ)ともいい、今の鶏頭(けいとう)です。夏から秋にかけて鶏のトサカに似た極彩色の花が咲きます。もとは熱帯アジア原産で、奈良時代に大陸から伝わり、鑑賞用として珍重されました。「蒔き生ほし」は、種を蒔いて生長させること。赤人も、せっせとガーデニングに精出していたのか、あるいはこの歌は、その鮮烈な花の色を女性に対する恋心に喩えているともいわれます。だとしたら、失恋を意味しているのでしょうか。

法華寺
法華寺の歴史は今から1300年ほど前、聖武天皇の后・光明皇后の発願によってはじまりました。父・藤原不比等の死後、皇后は子どものころから住み慣れた邸宅を皇后宮とされます。その後、皇后宮を宮寺に改められたのが法華寺です。
正式には法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といい、総国分寺である東大寺に対し、総国分尼寺(にじ)として、女人成仏の根本道場としての役割を担いました。皇后は法華寺において尼僧の仏学研鑚を勧め、女人成仏の規範を示されました。また天皇崩御後は、天皇の菩提も祈られたのです。
伽藍の完成は延暦元年(782)頃、光明皇后が亡くなられた後でした。現在の南門南側に金堂が建つなど広大な寺地を有し、東西両塔、金堂、講堂、食堂(じきどう)など壮大な伽藍を誇りました。
(法華寺のホームページから引用)
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