本文へスキップ

巻第3(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第3-400~402

訓読

400
梅の花咲きて散りぬと人は言へど我(わ)が標(しめ)結(ゆ)ひし枝(えだ)ならめやも
401
山守(やまもり)のありける知らにその山に標(しめ)結(ゆ)ひ立てて結ひの恥(はぢ)しつ
402
山守(やまもり)はけだしありとも我妹子(わぎもこ)が結(ゆ)ひけむ標(しめ)を人解(と)かめやも

意味

〈400〉
 梅の花が咲いて散ったと人は言うけれど、まさか我がものとしてしるしをつけた枝のことではあるまいな。
〈401〉
 すでに山を管理する山番がいたとも知らず、その山に標縄を張るなんて、私はすっかり恥をかきました。
〈402〉
 山番がもしいたとしても、あなたが張った標縄なら、それを解く人は決していないでしょう。

鑑賞

 400は、大伴宿祢駿河麻呂(おほとものすくねするがまろ)の「梅の歌」。大伴駿河麻呂は、壬申の乱の功臣である大伴御行の孫ともいわれ(父は不詳)、天平15年(743年)に従五位下、同18年に越前守、天平勝宝9年(757年)の橘奈良麻呂の変に加わったとして、死は免れるものの処罰を受け長く不遇を託ち、のち出雲守、宝亀3年に陸奥按察使(むつあぜち)、陸奥守・鎮守将軍として蝦夷(えみし)を攻略、同6年に正四位上・参議に進みました。宝亀7年(776年)に亡くなり、贈従三位。『万葉集』には短歌11首、また勅撰歌人として『続古今和歌集』にも一首の短歌が載っています。また、大伴宿奈麻呂坂上郎女との間の娘、二嬢(おといらつめ)と結婚しています。

 「咲きて散りぬ」は、ある少女が成長して結婚してしまったことの譬えで、「人は言へど」と、そうした噂話を聞いて、自分のものとして印をつけておいた枝(女の譬え)ではあるまいな、と不安に思っています。女を、幹ではなくて枝に譬えているのは、母親の庇護の下にある娘だったと察せられます。「標結ふ」は、自分の所有であることを示すためにしめ縄を張ること。「ならめやも」の「め」は、推量の助動詞「む」の已然形、「や」は反語の助詞、「も」は詠嘆で、あろうか、いやそうではあるまいな、の意。

 『万葉集』で梅を詠み入れた歌は約120首あり、萩を詠んだ約140首に次いで第2位の数となっています。ただ、萩とは違い、梅は庭園に植えて愛でられた渡来の花樹であるため、限られた階層の人々の歌の対象として、片寄ったあり方で存在します。また、古今集以後の歌人に愛でられたような、その香を歌ったものは殆どありません。

 401は
大伴坂上郎女、402は大伴駿河麻呂の歌。いずれも親族と宴会をした日に作った歌で、401では、郎女が二女の坂上二嬢と結婚させようとしていた駿河麻呂に対し、すでに女がいるのではないかと、暗にうかがったものとされます。「山守」は、山の番人のことで、本来は女の夫に喩えますが、ここでは駿河麻呂を女に見立てて戯れに歌いかけています。「ありける知らに」の「ける」は、見逃していた事実に気づいた時に用いる助動詞。「知らに」は、知らないので。「標結ふ」は、占有の目印を立てること。「結ひの恥」は、自分のものとして標を結ったことの恥。

 これに対して駿河麻呂が直ちに答えたのが
402で、郎女に逆らう人などいないと、わざと恐縮してみせています。「けだし」は、もし、もしかして。「我妹子」は、坂上郎女を指します。「結ひけむ」の「けむ」は、過去に関する伝聞。~という。「解かめやも」の「めやも」は、反語。ただ、これらの歌には違った解釈もあり、401は「娘の二嬢とあなたが既に誓い合った仲である(山に山守がある)のを知らずに、娘を守ろう(標結ひ立てて)としたのは、全く恥ずかしいことでした」と、娘をよろしくと駿河麻呂に言っており、402は「母親の正式な許し(結んだ標を解く)がなければ、いくら山守であってもどうしようもない」と答えて喜んでいるとするものです。いずれにしても親族の面前でのやり取りであり、座は大いに湧いたことでしょう。なお、「うたげ」と訓む「宴」は、ウチアゲの意だと言います。ウチアゲとは、手を叩きながら高くあげる意で、酒盛りの時のしぐさを言い、それが酒宴の意になったと言います。
 


貴族の特権

 官人貴族はすべてに特権階級であり、彼らには位田(いでん)・位禄(いろく:三位以上は位封)・季禄(今のボーナスにあたる)が与えられ、大臣クラスの年収は現代に換算すると1億円にも達するだろうと言われます。さらにこのほかに、五位以上の官人・親王に資人(しじん)・帳内(ちょうない)と呼ばれる従者が支給され、三位以上の官人・親王らには家司(けいし)が派遣されました。たとえば一位のものは資人100人、家司6人となっていました。

 また官人はその最下位の初位(そい)にいたるまで何らかの免税が認められ、三位以上では親と子3代にわたってすべての租税が免除されました。そして蔭位(おんい)と呼ばれる特権は、親の位階によって子・孫の初任の官位が定められたもので、一位の者の嫡出子は従五位下、庶出子および孫は正六位に最初から任命されました。

 当時の日本の全人口は600万人と推定されていますから、わずか数百人の官人のこのような特権生活を支えたのは、この残り大多数の人々でありました。

【PR】

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。