| 訓読 |
家にあらば妹(いも)が手まかむ草枕(くさまくら)旅に臥(こ)やせるこの旅人(たびと)あはれ
| 意味 |
家にいたなら、妻の腕を枕としているであろうに、草を枕の旅路に倒れて亡くなったこの旅人が哀れである。
| 鑑賞 |
聖徳太子による「行路死人歌」1首。推古天皇の摂政として活躍した聖徳太子は、生後4ヶ月で言葉を話し、同時に10人の話を聞き分けたという伝説があります。万葉時代にはすでに伝説上の人物だったとみえ、「小墾田宮で天下をお治めになった天皇の時代」の皇子との注記があり、天皇については「豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)天皇なり。諱(いみな)は額田、諡(おくりな)は推古」と記されています。
歌は、聖徳太子による「行路死人歌」です。「行路死人歌」というのは、旅先で飢えて倒れた、または不慮の災難に遭った死人を悼んで歌った歌です。旅する人は、素性の知れない異人でもあったから、たとえ人里近くで難事に遭っても、たやすく援助を受けられなかったのでしょう。野ざらしとなった死者は、「死」そのものが「けがれ」だったために、村落の人々にとっても同じ道を旅行く人々にとっても、恐れの対象となったのです。ですから、行路死人歌は、異郷の土くれとなっても魂が荒ぶることのないよう、鎮魂の祈りを込めて歌われています。
聖徳太子が「竹原(たかはら)の井:大阪府柏原市青谷」にお出かけになったときに、竜田山で死人を見て歌ったというこの歌は、聖徳太子という「聖(ひじり)」をうたい手の始原とすることから、鎮魂歌としての正統性が確立されたといえます。歌自体は特段の技巧もなく、行き倒れた旅人に対して、実際にかけた言葉をそのまま詠ったようになっています。「家にあらば」は、「家ならば」の訓みもあります。「草枕」は、草を枕に寝る意で「旅」に掛かる枕詞。「臥やす」は「臥(ふ)す」の古語「臥ゆ」の敬語。「旅人(たびと)」は「たびひと」の約。なお『日本書紀』には次のような説話が記されています。
――推古天皇二十一年の十二月、皇太子厩戸皇子(聖徳太子のこと)が片岡に遊行した時、道のほとりに痩せ衰えた男が倒れていた。姓名を尋ねても、答えない。皇子は男に食べ物を与え、上衣を脱いで着せてやり、「安らかに寝ておれ」と言って立ち去った。翌日、皇子は近習に男の様子を見に行かせた。近習が戻ってきて言うには、「すでに死んでおりました」。皇子は大いに悲しみ、男をその場に埋葬するよう命じた。数日後、皇子は近習の者を召して、「先日、道に倒れていた者は、ただ者ではあるまい。きっと聖(ひじり)に違いない」と言って、墓を見に行かせた。戻ってきた近習は、「墓はそのままでした。ところが棺を開けてみましたところ、屍(しかばね)は無くなっておりました。ただ棺の上に衣服だけが畳んで置いてありました」と告げた。皇子はその上衣を持って来させると、何ごともなかったようにまた身に着けた。世間の人々はこれをたいへん不思議に感じ、「聖(ひじり)は聖を知るというが、本当だったのだ」と言って、ますます皇子を畏敬したという。――
聖徳太子が遊行したという片岡は、今の奈良県北葛城郡王寺町のあたりであり、この片岡飢人伝説は、『日本書紀』をはじめ後の世まで多くの書物に登場します。また、この歌と同種の歌が『日本書紀』には、「級(しな)照る 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人あはれ 親無しに 汝(なれ)成りけめや 君はや無き 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ」としるされています。そちらは「お前は親無くして生まれてきたのではないのに、主君はいないのか」という嘆きであるのに対し、万葉集では、亡くなった旅人の妻に思いを寄せる歌になっています。また、『拾遺集』には「しなてるや片岡山に飯に餓へて臥せる旅人あはれ親なし」の形で載っています。
なお、片岡の地にある達磨寺には、聖徳太子が出会った旅人は禅宗の開祖・達磨大師だったという伝説があり、本堂の下から発見された墓は、そのとき聖徳太子が埋葬した墓であると言われています。

聖徳太子の略年譜
574年 用明天皇の第二皇子として誕生
587年 蘇我馬子の物部守屋追討軍に加わり、戦勝を祈願する
593年 伯母の推古天皇が即位
593年 皇太子となり、摂政として蘇我馬子とともに天皇を補佐
594年 推古天皇により、仏教興隆の詔が発せられる
601年 斑鳩宮を造営
603年 冠位十二階を制定する
604年 十七条憲法を制定する
607年 小野妹子を遣隋使として派遣
607年 斑鳩宮のとなりに斑鳩寺(法隆寺)を建立
613年 片岡山へ遊行し、飢人と出会い、食物と衣服を与える
620年 蘇我馬子と協力して『天皇記』『国記』等を編纂する
622年 斑鳩宮にて、49歳で亡くなる

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『日本書紀』
日本最古の勅撰歴史書。全30巻。六国史の筆頭で、『古事記』とあわせて「記紀(きき)」という。天武天皇の第3皇子舎人(とねり)親王が、勅を奉じて太安麻侶(おおのやすまろ)らと編纂、養老4年(720年)に完成、朝廷に献じられた記録がみえる。第1・2巻は神代、第3巻以下は神武天皇の代から持統天皇の代の終わり(697年)までを、年紀をたてて編年体に配列してある。その記事内容は、① 天皇の名・享年・治世年数・皇居の所在地を列記した帝紀、② 歴代の諸説話・伝説などの旧辞、③ 諸家の記録、④ 各地に伝えられた物語、⑤ 詔勅、⑥ 壬申の乱の従軍日記などの私的記録、⑦ 寺院縁起、⑧ 朝鮮・中国の史書の類から成っている。『古事記』と関係が深く、『古事記』と同様に天皇中心の中央集権国家の確立にあたっての理論的・精神的な支柱とすることを目的としている。ただし、『古事記』が一つの正説を定めているのに比し、『日本書紀』は諸説を併記するなど史料主義の傾向がある。また、『古事記』が国語表現をでき得る限り表記しようとしているのに対し、歌謡など一部を除いて徹底的な漢文表記となっており、漢籍、類書、仏典を用いた漢文的潤色が著しいものとなっている。
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