| 訓読 |
百伝(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日(けふ)のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ
| 意味 |
磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのだろうか。
| 鑑賞 |
大津皇子(おおつのみこ)の歌1首。大津皇子は天武天皇の御子で、「詩賦の興(おこり)は大津より始まる」といわれたほど文筆を愛し、容貌も大柄で男らしく人望も厚かったといわれます。草壁皇子に対抗する皇位継承者とみなされていましたが、686年、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして処刑されました。罪名は八虐(はちぎゃく)という最高罪のうちの「天皇殺害、国家転覆」に当たるとされました。ただし、謀反の罪で大津とともに逮捕された30余人は、配流された2人を除き、全員が「皇子にあざむかれた」のだとして赦免されています。大津皇子ひとりが標的だったことは明らかであり、そのため、この逮捕・処刑劇は、息子である草壁の安泰を図ろうとする皇后(のちの持統天皇)の思惑がからんでいたともいわれます。
この歌は、大津皇子が刑の宣告を受けて詠んだ歌です。題詞は「涕(なみだ)を流して作りませる御歌」。大津は捕縛された姿のまま連行され、訳語田舎(おさだのいえ:皇子の邸宅だったか)で自殺させられました。この歌はその途上で詠まれたものでしょうか。もはや逃れることのできない死をはっきりと予感し、「磐余の池に鳴く鴨」たちの姿に、永らえる生命の確かさをしっかりと見つめる皇子の、空しくも悲痛な叫びが吐露されています。大津の妻・山辺皇女(やまべのひめみこ)は、夫の死に際して悲しみのあまり裸足で死刑場まで走っていき、夫の死骸にとりすがって自殺した、見る者は皆すすり泣いた、と『日本書紀』は伝えています。
「百伝ふ」は、百に伝わっていく五十(い)の意で、同音の「磐余」にかかる枕詞。「磐余の池」は、香具山の東北にあった池で、皇子が処刑された訳語田舎の近く。現在はその姿を失い、その名残とみられる池の内と東池尻という地名が残っていますが、田園の中に立つ歌碑がわずかに伝承を伝えるのみです。「雲隠る」というのは、貴人の霊魂は死せる肉体を離れて天上に上って行くという考えが背景にあり、死んでいくことを意味しています。さすがに『懐風藻』に多くの優れた詩を残しただけあり、24歳の皇子の辞世の歌とは思われないほどの豊かな詩才に恵まれた天分が表現されています。もっとも「百伝ふ」という枕詞や「雲隠る」という表現は、この時代のものとしては新しいため、後人仮託説もあり、皇子の悲劇は死の直後から物語として語られていたらしく、この歌が伝承世界で作られた可能性は高いようです。
『懐風藻』は『万葉集』と同じ時期に編まれた漢詩集であり、それには、臨終の際の皇子の詩が残されています。
「金烏(きんう) 西の舎(や)に臨(て)り 鼓(つづみ)の声(ね)は 短き命を催(うなが)す 泉路(よみぢ)に賓主(ひんしゅ)無く 此の夕(ゆふ)べ 誰(た)が家に向かふ」
(日の光は西にある家を照らし、時を告げる鐘の音は、私の命の終わりを告げる。黄泉(よみぢ)には迎えてくれる主人も客もいない。独りぼっちで、いったい自分はどこの家に向かうのか)

大津皇子の歌を音楽にしたショスタコーヴィチ
1912年に、サンクトペテルブルクで出版された『日本の叙情歌』によって、『万葉集』がロシアに紹介されました。ソ連時代の作曲家ショスタコーヴィチは、24編の万葉歌の中から大津皇子の辞世の歌「ももづたふ磐余の池に」を選んで題材とし、『自害の前に』という歌曲を作曲しています。その歌詞の日本語訳は次のようなものです。
木の葉は舞い散り
濃い霧が湖を覆っている
野生の鴨は驚いたように鳴いている
この聖なる磐余の池に
陰鬱な夢が私の頭を翳らせ
私の胸は重い
一年の後、再び鴨の鳴き声が響こうとも
もはや私は聞くことはないのだ
スターリン治世に生きたショスタコーヴィチが、敢えて大津皇子の歌を選んだのには、何か特別な思いがあったのでしょうか。彼もまた、自身の作曲態度によって命の危険を感じることがあった人です。その彼が、皇子の歌が潜在的にはらんでいる恐怖の生々しさを、余すところなく再現しています。
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