| 訓読 |
423
つのさはふ 磐余(いはれ)の道を 朝去らず 行きけむ人の 思ひつつ 通(かよ)ひけまくは ほととぎす 鳴く五月(さつき)には あやめぐさ 花橘(はなたちばな)を 玉に貫(ぬ)き〈一に云ふ、貫き交(まじ)へ〉 かづらにせむと 九月(ながつき)の しぐれの時は 黄葉(もみちば)を 折りかざさむと 延(は)ふ葛(くず)の いや遠長く〈一に云ふ、葛の根の いや遠長に〉 万代(よろづよ)に 絶へじと思ひて〈一に云ふ、大船(おほぶね)の 思ひ頼(たの)みて〉 通(かよ)ひけむ 君をば明日(あす)ゆ〈一に云ふ、君を明日ゆは〉 外(よそ)にかも見む
424
こもりくの泊瀬娘子(はつせをとめ)が手に巻ける玉は乱れてありと言はずやも
425
川風(かはかぜ)の寒き泊瀬(はつせ)を嘆きつつ君が歩くに似る人も逢へや
| 意味 |
〈423〉
あの磐余の道を毎朝帰って行かれたお方が、道すがら思われたであろうことは、ホトトギスの鳴く五月には、共にあやめ草や花橘を玉のようにひもに通して(一云、通し交えて)、髪飾りにしようと、また九月のしぐれの季節には、共に黄葉を折り取って髪にさそうと。そして這う葛のようにますます末長く(一云、葛の根のようにますます末長く)、いついつまでも親しくいようと思って(一云、大船のように頼りにして)通ってきたのに。その君を、明日からはあの世の人と見なければならないのか。
〈424〉
泊瀬の娘子が手に巻いている玉、その玉は緒が切れてばらばらに散り乱れているというではないか。
〈425〉
川風の寒い泊瀬の道を、あなたは逝った人を思い嘆きつつ歩き回っている。しかしいくら歩いても、似た人にさえ逢えようか、逢えはしない。
| 鑑賞 |
前の歌(420~422)に続き、石田王が亡くなった時に山前王が作った歌。石田王は伝未詳。山前王は、天武天皇の皇子である忍壁皇子(おさかべのみこ)の子。慶雲2年(705年)従四位下、養老7年(723年)没。
423の「つのさはふ」は、蔦(つた)が這う意で「磐」に掛かる枕詞。「磐余」は、藤原京のすぐ東、奈良県桜井市池之内と橿原市池尻の一帯。「朝去らず」は、朝ごとに。「行きけむ人の」の「けむ」は、回想の推量の助動詞。「人」は、石田王を指します。「通ひけまくは」の「けまく」は「けむ」のク語法で名詞形。「あやめぐさ」は、今日のショウブに当たります。「花橘」は、ここでは5月の景物としての「あやめぐさ」とともに挙げられているので、ニッポンタチバナとされます。「延ふ葛の」は、蔦の蔓が延びることから「いや遠長く」にかかる枕詞。なお、左注に、或いは柿本人麻呂の作という、とあります。
424の「こもりくの」は「泊瀬」の枕詞。「泊瀬娘子」は、泊瀬に住む女の意。「玉は乱れて」の「玉」は、泊瀬娘子が愛した石田王を玉に譬えたもの。「やも」は、反語。425の「川風の寒き泊瀬を」の「川風」は、泊瀬川を風道にして吹く風。泊瀬は川に沿った長い峡谷なので、そこを吹く風は寒かったと見えます。「逢へや」の「や」は、反語。逢えようか、逢えはしない。
424・425は「或る本の反歌」とあるものの、その左注には「或いは、紀皇女が亡くなった後に、山前王が石田王に代わって作ったという」旨の記載があり、この423の歌との関連に疑義が生じています。長歌の反歌であるとすると、長歌では石田王だけのことをいっていたのを、424・425では、観点を妻であった泊瀬娘子に変え、娘子の悲しみを想像して、挽歌である長歌につながりをもたせていることになります。柿本人麻呂による反歌に見られる手法です。一方、左注に従えば、424の「泊瀬娘子」は、泊瀬に葬られた紀皇女を泊瀬に住む娘子に見立ててその死をいっていることになり、425は、亡き紀皇女を思って石田王がさまよわれても、その皇女に似る人にさえ逢えない、と解釈できます。いずれにしても、繋がりが理解しにくいものとなっています。

天武天皇の子女
皇子
高市皇子/草壁皇子/大津皇子/忍壁皇子/穂積皇子/舎人皇子/長皇子/弓削皇子/新田部 皇子(生年未詳)/磯城皇子(生没年未詳)
皇女
十市皇女/大伯皇女/但馬皇女/田形皇女/託基皇女/泊瀬部皇女(生年未詳)/紀皇女(生没年未詳)
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