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巻第3(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第3-464・465

訓読

464
秋さらば見つつ偲(しの)へと妹(いも)が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも
465
うつせみの世は常(つね)なしと知るものを秋風 寒(さむ)み偲(しの)ひつるかも

意味

〈464〉
 秋になったらごらんになって私を思い出してくださいと言って、彼女が植えた庭のナデシコの花が咲いてきたよ。
〈465〉
 この世は無常だとは分かってはいるものの、寒い秋風を受けると、妻のことが思い出されてならない。

鑑賞

 462の歌に続き、大伴家持が亡き妾を悲しんで作った歌。464は、「又家持、砌(みぎり:軒下)の瞿麦(なでしこ)の花を見て作れる」歌。「秋さらば」は、秋になったら。「妹が植ゑしやど」は、家持が16歳ころに、大伴家の本宅である「佐保宅」から移り住んだ「西宅」とされます。佐保宅の西の方角にあったことからそう呼ばれ、家持が妾や子らと住んだ我が家は、父の旅人の時代に用意されていた住居でした。「見つつ偲へ」の「偲ふ」は、ある物を見て何かを思慕する意。妾は、この時すでに自身の死を覚っていたという説があります。しかしそれでは初句があまりにさりげなさ過ぎるとし、「花咲かば」とあるなら格別、ここはやはり賞美の意だとする見方もあります。しかし、国文学者の西宮一民は、「前者の解に心惹かれる」と言っています。もしそうであるなら、秋になったら私と思って偲んでほしいとナデシコを植えた心映えは、若い家持の心に深く刻まれ、また、ナデシコの花を愛する気持ちはいっそう深まったことでしょう。

 ナデシコは、『万葉集』では「石竹」「瞿麦」などと表記される秋の七草の一つですが、夏の草としても登場します。夏にピンク色の可憐な花を咲かせ、我が子を撫でるように可愛らしい花であるところから「撫子(撫でし子)」の文字が当てられています。そのため、ナデシコを擬人化したり、人と重ね合わせたりして、多くの歌が詠まれています。ただ、ナデシコが詠まれた27首は、家持の12首とその周辺に偏って現れており、万葉前期の歌には見られません。

 
465は、月が替わってのち、秋風を悲しんで作った歌。妾が亡くなったのは6月なので、7月に入ってのこと。陰暦の7月は秋になります。「うつせみの」は「世」の枕詞。「うつせみ」の語源は「現(うつ)し臣(おみ)」で、この世の人、現世の人の意。「臣」は「君」に対する語で、神に従う存在をいいます。ウツシオミがウツソミと縮まり、さらにウツセミに転じたものです。「常なしと」は、無常であることは。「知るものを」の「ものを」は、逆接。「寒み」は、寒いので。「偲ひつるかも」の「かも」は、詠嘆。
 


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大伴家持の生涯

 大伴家持は、大伴旅人の晩年54歳の時の子で、母は妾であった丹比(たぢひ)氏の女性。生年は養老2年(718年)とする説が有力です。神亀5年(728年)に父旅人が大宰帥(大宰府の長官)として西下。11歳の家持もこれに従い、程なく養母の大伴女郎を失います。帰京後の天平3年(731年)父旅人も死去。天平5年、16歳になった家持は、年月の明らかな歌では初めて『万葉集』に歌(巻第6-994)を残します。同6年、17歳の時に、蔭位制により内舎人(うどねり)として出仕。同13年、24歳で正六位上。出仕以後の数年間に妾を亡くし(2人の遺児あり)、坂上大嬢と結婚。この頃、聖武天皇によって都が平城京から恭仁・難波・紫香楽(しがらき)の各京を転々としたため、官吏である家持の居所も佐保に一定しませんでした。同18年、29歳の時に、宮内少輔を経て越中守となり赴任、天平勝宝3年(751年)、34歳で帰京、少納言に。翌年にかけて東大寺大仏開眼会があり、同5年、36歳の時に絶唱春愁三絶(巻第19-4290~4292)を残します。同6年、兵部少輔、更に山陰巡察使を兼ね、7年2~3月に防人を検閲。この間、6年8月から7年2月まで作歌を欠きます。天平宝字元年(757年)6月、兵部大輔。7月に橘奈良麻呂の変が勃発、12月頃に右中弁。同2年、41歳で因幡守となり、同3年(759年)正月の賀歌(巻第20-4516)を『万葉集』の最終歌として、以後の作歌は伝わっていません。その後、薩摩守、太宰少弐、中務大輔、相模守、左京大夫、伊勢守等を歴任し、宝亀11年(780年)に参議。天応元年(781年)春宮大夫を兼ね、従三位。延暦2年(783年)に中納言となり、同4年8月に68歳で死去。ただし、死後まもなくに起こった藤原種継射殺事件に連座して元の官位を奪われ、大同元年(806年)まで従三位への復位はなされませんでした。
 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。