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巻第4(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第4-501~504

訓読

501
娘子(をとめ)らが袖(そで)布留(ふる)山の瑞垣(みづかき)の久しき時ゆ思ひき我(われ)は
502
夏野(なつの)行く牡鹿(をしか)の角(つの)の束(つか)の間も妹(いも)が心を忘れて思へや
503
玉衣(たまきぬ)のさゐさゐしづみ家の妹(いも)に物言はず来(き)にて思ひかねつも
504
君が家に我(わ)が住坂(すみさか)の家道(いへぢ)をも我(わ)れは忘れじ命(いのち)死なずは

意味

〈501〉
 乙女たちが恋しい人に袖を振る、布留の石上神宮の垣、その古い垣のように昔から変わらず、ずっとあなたを思っていた。
〈502〉
 夏の野をゆく若い牡鹿の生え変わる角のように、ほんのわずかな間も、妻の心を忘れることがあろうか。
〈503〉
 美しい衣のさいさいしずみ、家の妻にろくに物も言わずに出てきてしまい、恋しさに耐えかねている。
〈504〉
あなたの家に私が住む、その言葉の響きのように、あなたと住んだ住坂の家も家路も忘れはしません。命のある限りずっと。

鑑賞

 501~503は柿本人麻呂の、自分を思う妻への感謝の気持ちを込めた歌です。501は、娘子らが袖を振る、布留の山とかけており、「袖」までが「布留」を、上3句が「久しき」を導く二重の序詞になっています。「布留」はいまの奈良県天理市布留町で、石上(いそのかみ)神社の周辺。「瑞垣」の「瑞」は聖なるものを讃えたことばで、ここは石上神社の神域を囲む垣。「久しき時ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。気が遠くなるような長い時間を表現しています。「思ひき我は」の「き」は過去を表す助詞で、倒置法になっています。冒頭の「娘子ら」は、あるいはこの石上神社に奉仕する巫女たちのことかもしれません。当時の衣の袖は指先が隠れるほどに長い筒袖で、袖を振るのは魂を招く呪術的な行為とされていました。

 
502の上2句は、鹿は夏の初めに角を落として生え変わるので、まだ夏になって短いところから短い譬喩としたもので、「束の間」を導く序詞。「束」は、この時代に長さの単位とされていたもので、こぶしを握って指4本の幅にあたります。「忘れて思へや」は、忘れて思わなくなる意の反語。思い忘れようか、忘れはしない。前歌が永遠に近い長い時間を詠んだのに対し、この歌は「一瞬(束の間)」という極小の時間に焦点を当てています。鹿を詠むのは秋の歌に多く、夏の歌は珍しい例です。

 
503の「玉衣」の「玉」は美称の接頭語で、美しい衣、立派な衣の意。「玉衣の」は「さゐさゐ」の枕詞。「さゐさゐ」の意味は不明ですが、衣(きぬ)ずれの擬声音、あるいは、旅立ちがせわしなく、妻が悲しみ騒いで、心が沈んで、などと解釈されます。人麻呂の用語としてはふさわしくなく、また中央の言葉にはみられないことや、唐突な別れの歌であることなどから、防人の歌ではないかとする見方もあるようです。「しづみ」は、静まり、または沈み。「物言はず来にて」は、大切な一言を言わないまま、出発してしまったこと。「思ひかねつも」の「かねつ」は、〜できない、の意。思いを抑えきれない、心の整理がつかないという、あふれ出す感情を表現しています。

 昭和~平成時代の歌人である
塚本邦雄は、「玉衣のさゐさゐしづみ」という音の響きが卓抜だとしてこの歌を愛し、「夫の妻に対する愛が滾(たぎ)るように、この二句に表現されている。妻なる人の容姿から衣服まで浮かんでくるようだ。人麿の数多ある相聞中随一」と評しています。なお、東歌に別伝の形の歌「あり衣のさゑさゑしづみ家の妹に物言はず来にて思ひ苦しも」(巻第14-3481)があり、人麻呂の歌とどちらが先かは分かりません。

 
504は、柿本人麻呂の妻が、夫の住坂の家に同棲していることを喜び、感謝する気持ちを、誓いの言葉として述べている歌で、この歌の前にある人麻呂の3首(501~503)に応じています。「君が家に我が」は「住坂」を導く序詞で、住坂の名に君とともに住む思いを掛けています。地名と見ない説もありますが、奈良県東部、宇陀市榛原の伊勢道にある古代地名の「墨坂」ではないかとされます。神武天皇東征の折に、賊軍が天皇軍を防ごうとして炭火を置いたという伝説のある地です。ただ、この地は藤原京から15kmも離れており、本居宣長が「京人の常に行通べき所にはあらず」と言っているように、この墨坂ではなかろうとの見方があります。「家道」は、家へ通ずる道で、その家は上からの続きで人麻呂の家とされます。「我れは忘れじ」の「じ」は打消推量・打消意志の助動詞。「決して忘れない」という強い拒絶と決意の意志が込められています。「命死なずは」は、死なない限りは、命がある限りは。

 当時の夫婦は、夫が妻の家に通うのがふつうで、後には夫の家へ迎えることもありましたが、やはり夫の家に同棲するのは特別なことであったようです。「家道をも」と言っているのは、はじめて夫の家へ移って来た時の道の記憶を言っているのでしょうか。なお、人麻呂の妻は、歌に出ているだけで軽娘子、羽易娘子、依羅娘子がいますが、ここの妻が誰であるかは分かっていません。
 


本居宣長と『万葉集』

 本居宣長(1730〜1801年)といえば『古事記伝』の著者として江戸時代の国学を大成した巨頭ですが、彼の学問の出発点、そして「古道(いにしえのみち)」を探究するうえで、『万葉集』は極めて重要な位置を占めていました。宣長と『万葉集』の関わりについて、その学術的なアプローチと、彼が抱いた文学観の2つの側面から紐解きます。

  1. 万葉集』研究における業績
    宣長が古典研究、特に音韻や文献考証の道に進む契機となったのは、元禄期の高僧であり国学の先駆者である契沖(けいちゅう)の著作『万葉代匠記(まんようだいしょうき)』との出会いでした。宣長は「稀世のすぐれもの」「古典研究の基礎を築いた」と契沖を絶賛し、実質的な師として仰ぎました。宣長自身の『万葉集』に関する主要な著作には以下のようなものがあります。
    ●『万葉集玉の小琴(たまのおごと)』
     『万葉集』の難訓(難しい読み方)や解釈、歌意について考証を施した書。契沖の説を継承しつつ、さらに発展させようと試みました。
    ●『万葉集枕詞解』
     万葉和歌に多用される枕詞に特化し、その語源や意味を実証的に検証した研究書。
     宣長は、賀茂真淵のように万葉の「文体(歌風)」を自己の詠歌において完全再現すること(万葉調の絶対視)よりも、まずは「古代の言葉を正確に復元する」ための実証的なテキストクリティック(文献考証)の対象として『万葉集』を深く読み込みました。
  2. 文学観における位置づけ
    宣長の師である賀茂真淵は、『万葉集』の歌風を「高く直き心」や「ますらおぶり(男性重心、力強く雄大な風格)」として讃え、平安時代の『古今集』以降の「たおやめぶり(女性的、繊細優美)」を格調が下がったものと批判しました。しかし、宣長はこの「ますらおぶり絶対主義」とは少し異なる視点を持っていました。
     宣長は、人間のありのままの感情(恋しさ、悲しみ、弱さ)の表出である「もののあわれ」を文学の本質と見なしました。そのため、真淵が批判した『古今集』や『新古今集』の繊細な抒情性も高く評価しています。また、宣長にとって『万葉集』の価値は、儒教や仏教といった「漢意(からごころ:後世の理屈や教条主義)」に染まる前の、古代日本人の偽りのない素朴な感情(直き心)がそのまま息づいている点にありました。つまり宣長は、『万葉集』を「雄々しいから素晴らしい」としたのではなく、「理屈で飾らない人間の生の実感が、そのままの言葉で詠まれているから素晴らしい」と捉えたのです。
  3. まとめ
    宣長にとって『万葉集』の研究は、彼の生涯の大業である『古事記伝』を執筆するための「上代特殊仮名遣い(古代の正確な音韻法則)」の発見や、万葉仮名の解読の基礎となりました。『万葉集』という膨大な言語の海を正しく渡る術(訓読や語釈の技法)を身につけたからこそ、彼は『古事記』という神代のテキストを蘇らせることができたと言えます。

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古典に親しむ

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