| 訓読 |
505
今さらに何をか思はむ打ち靡(なび)き心は君に縁(よ)りにしものを
506
我(わ)が背子(せこ)は物な思ひそ事しあらば火にも水にも我(わ)がなけなくに
507
敷栲(しきたへ)の枕(まくら)ゆくくる涙にぞ浮寝(うきね)をしける恋の繁(しげ)きに
508
衣手(ころもで)の別(わ)かる今夜(こよひ)ゆ妹(いも)も我(わ)れもいたく恋ひむな逢ふよしをなみ
| 意味 |
〈505〉
今さら何をくよくよと思いましょう、私の心はすっかり靡いてあなたに任せていますものを。
〈506〉
あなたはくよくよと思わないでください。何か障害があっても、火の中にも水の中にもこの私がついていますのに。
〈507〉
枕を伝って流れ落ちる涙で、波のまにまに漂う辛い浮き寝をしました。絶え間ない恋しさのために。
〈508〉
袖を分け合って遠ざかる今夜から、妻も私も互いに強く恋い焦がれることになるだろうな。直接逢うすべがないので。
| 鑑賞 |
505・506は、安倍女郎(あべのいらつめ)の歌。安倍女郎は、巻第4-514~516で中臣東人(なかとみのあずまひと)と贈答を交わした阿倍女郎と同人とみる説、別人とみる説があります。同人とみる説は、「阿倍」「安倍」を通じて用いた例があることによっています。安倍氏はもともといまの岩手県あたりの一族といわれ、平安時代後期に奥州平泉で栄華を誇った藤原三代は、この一族の後裔にあたるとされます。
505は、夫の身に何らかの憂え事が生じて危機感を抱き、そのため、夫から身の去就を考えてもよいというようなことを言われての返事とみられます。「今さらに何をか思はむ」は反語で、今さら何を思い悩むことがあろうか(いや何もない)。「打ち靡き」の「打ち」は接頭語、「靡き」は従う意。「心は君に縁りにしものを」の「縁る(寄る)」は、身を寄せる、心を通わせる、あるいは運命として結びつくこと。「〜にしものを」という結びは、〜してしまったのだから(今さらどうしようもない)という、一種の開き直りにも似た深い納得を表しています。
506の「物な思ひそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「事しあらば」の「事」は重大な事態、「し」は強意の副助詞。「火にも水にも」は、仏教の「火難水難」や、古くからの比喩的な表現として、どんな過酷な状況でも、という意味です。「なけなくに」は、ないわけではないのに。思い悩む夫を強く慰め励ましており、「なけなくに」という結びの畳み掛けるようなリズムが、迷いのない決意を感じさせます。夫は、中堅クラスの官人だったとみられています。もし安倍女郎が上掲の阿倍女郎と同一人なら、夫は中臣東人ということになります。
507は、駿河采女(するがのうねめ)の歌。駿河采女は、駿河国(静岡県中部)駿河郡出身の采女とされますが、伝不詳です。采女というのは、天皇の食事に奉仕した女官のことで、郡の次官以上の者の子女・姉妹の中から容姿に優れた者が選ばれました。身分の高い女性ではなかったものの、天皇の寵愛を受ける可能性があったため、天皇以外は近づくことができず、臣下との結婚は固く禁じられていました。この歌で言っているのは、采女としての任が解けてからのことか、あるいは宮廷に仕える男子を密かに思ってのことでしょうか。
「敷栲の」は、寝具である「枕」にかかる枕詞。「枕ゆくくる」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。「くくる」は、水中を潜行することを言いますが、ここは、伝って流れる。「涙にぞ」の「ぞ」は、取り立てて言うときの係助詞。「浮寝」は、水鳥が水に浮かんで寝ること、または水に浮かんだ舟の上で寝ること。「しける」の「ける」は、上の「ぞ」の係り結びで連体形。浮寝をしたことであるよ。「恋の繁きに」の「繁き」は、多い、頻繁である意。恋の深い意。「に」は、理由を示す助詞。
この歌について、国文学者の窪田空穂は次のように評しています。「吾が恋しさに流す涙の上に浮寐をしたというのは、心としては訴えの情を強めようがためのもので、また語(ことば)としては例のないもので、当時にあっては新しいものである。しかし結果から見ると、実際から遊離したものとなって、かえって訴えの情を弱めてしまっている。夫婦間の歌で、実用を主とすべきものが、文芸的にしようとしたため、その本旨を失うに至ったものである。実際的ということを性格とし、文芸性ということには限度のあるのを、その限度を超えたもので、この傾向が後の平安朝に続くものとなっている」。
508は、三方沙弥(みかたのさみ:伝未詳)の歌。何らかの事情で、夫婦が遠く別れることになった時に、妻に与えた歌です。「衣手」は袖のことで、「衣手の別かる」は、袖と袖が別れて、の意。この表現は、単なる立ち去りではなく、肌の温もりが残っている状態での引き剥がされるような別れを想起させます。「今夜ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。今夜から、今夜を境に。「いたく恋ひむな」の「いたく」は、ひどく、強く。「恋ひむな」の「むな」は、推量の「む」に詠嘆の「な」が付いた形で、激しく恋い焦がれることだろうなあ、という切実な予感を示しています。「逢ふよしをなみ」の「逢ふよし」は、逢う方法。「なみ」は、無いゆえに。
窪田空穂は、この歌について、「『衣手の別る今夜ゆ』という語(ことば)は、その場合とすると、実際に即しつつも、美しく落着いた言い方である。したがって一首全体に調和をもったものとなっている。おのずからにその人柄をあらわしている歌である」と述べています。なお、巻第2-123・125に園臣生羽の娘を娶った早々の時の歌がありますが、この歌が同じ相手に与えたものであるのかどうかは分かりません。

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