| 訓読 |
513
大原のこの市柴(いちしば)の何時(いつ)しかと我(わ)が思(も)ふ妹(いも)に今夜(こよひ)逢へるかも
| 意味 |
〈513〉
大原のこの柴の木のようにいつしか逢えると思っていた人に、今夜という今夜はとうとう逢えることができた。
| 鑑賞 |
志貴皇子(しきのみこ)が、ようやく逢うことのできた「妹」と呼ぶ女性に与えた歌。「大原」は、奈良県明日香村の小原(おうばら)であろうとされます。「市柴」は、柴(小さい雑木)がびっしりと生い茂っている様子。上2句が、類音で「何時しか」を導く序詞。「何時しかと」は、いつになったら(逢えるのか)という、待ちわびる心の焦りを表します。「今夜逢へるかも」の「かも」は、詠嘆の終助詞で、待ち焦がれた末の成就に対する深い感動が込められています。山野などで男女が逢うのは、人目を避けるためで、大津皇子の巻第2-107の歌にもあったように、当時はふつうに行われていたようです。
なお、志貴皇子という人について、作家の大嶽洋子は次のように述べています。「彼の処世術については、あらゆる憶測が飛び、それによって歌の解釈も微妙に変わってくる。もともと隠者的で、政治や権力に関心がなかったのだろうとか、一応の地位と待遇を与えられることで、政権の枢軸から一歩距離を置くことを選んだのだろうとか、いや彼は文化的な面では結構活躍しているとか。歴史を遡って読むときの余裕かもしれないが、私は彼は慎重かつ知的なそのゆえに政治的な人間ではなかったかと思うのだ。勿論、そのことはおそらくは父親ゆずりの冷静な観察力と判断力によるものがあろう。同じ天智天皇の皇子でも、異腹の兄弟の大津皇子はみごと持統天皇の挑発にのって自滅した。川島皇子は大津皇子を讒言で体制側に売ることによって生き延びようと画策した。志貴皇子は冬の時代と見きわめて冷静に耐える道を選んだと私は思う」
志貴皇子は天智天皇の第7皇子で、天武朝ではすでに成年に達していたとみられ、天武8年(679年)5月に、吉野宮における有力皇子の盟約に参加しています。続く持統朝では不遇であったらしく、撰善言司(よきことえらぶつかさ)に任じられたほか要職にはついていません。しかし、志貴皇子の薨去から50年以上を経た宝亀元年(770年)、息子の白壁王(しらかべのおおきみ)が62歳で即位し光仁天皇となったのに伴い、春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしらしめすすめらみこと)と追尊、また田原天皇とも称されるようになりました。『万葉集』にはわずか6首の短歌をとどめるものの、天智系の、奈良末から平安にかけての再生発展にとって不可欠な人であったし、優艶雅醇の細みの世界を残した湯原王が、志貴皇子の子であってみれば、流麗明快で新鮮な感覚の歌風を後代に伝える上で、なくてはならない存在でありました。

律令下の中央官制
二官八省を基本とする体制で、天皇の下に、朝廷の祭祀を担当する神祇官と国政を統括する太政官が置かれ、太政官の下に実務を分担する八省が置かれました。二官八省のほかにも、行政組織を監察する弾正台、宮中を護衛する衛府がありました。太政官の長官は太政大臣ですが、通常はこれに次ぐ左大臣と右大臣が実質的な長官の役割を担いました。この下に事務局として少納言局と左右の弁官局がありました。
[八省]
中務省
式部省
治部省
民部省
(以上は左弁官局が管轄)
兵部省
刑部省
大蔵省
宮内省
(以上は右弁官局が管轄)
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木簡の形と使い方
木の札に書き込んで文書とする場合、おおむね幅3~5cm、長さ20~30cmほどの板が多い。命令下達や報告の上申には、このようなものが多く使われたが、なかには長さ50cmを超える大きさのものもある。たとえば地方の各郡で郡司が支配下の人々に命令を伝えた郡符(ぐんぷ)の場合、二尺(約60cm)ほどの長さが慣例だったようであり、何らかの基準があって札がつくられていたのだろう。30cmの長さでは、そう多くの情報は詰め込めない。屋外で作業結果を記したりする場合には、1mを超えるような大型の札も使われている。
文書の授受には基本的に長方形のものが使われているが、物品につける荷札の場合は、それに適した形態に加工された。物品にくくりつけるために紐を巻きつける必要があれば、紐がはずれないように荷札に切り込みを入れている。また先を尖らせたものも多く見られ、荷物を縄で縛り、そのすき間に差し込むためとみられる。もちろん、対象となる物品の形や大きさに応じて、札の形も変化する。たとえば、鰹節(かつおぶし)につけられた荷札は細長いといった特徴がある。
都で見つかった荷札木簡には、国名から始まる住所と人名、物品名と数量、それに年月日などが書かれた例が多い。これらの荷札は、調や庸として各地の人々に課された物品が納められる際につけられ、地方でまとめて、都に届けられるまでについていたものである。都でそれらの物品が使われる際に、札ははずされ捨てられる。
木簡は、紙と違って厚みがあり、この特徴を活かした使い方もある。官人の勤務評価をまとめる作業の際には、個人の勤務結果を一枚ずつ札に記して、カードのようにして使ったらしい。こうした勤務結果を記した札は、側面に穴があけられており、紐を通して並べて綴じることができる。綴じ合わせて壁にでも掲げたのであろうか。
また、木の札は、表面に書かれた文字を小刀で削って書き直すことが可能である。一度使った札を別の用途に転用するときには、表面を削れば、厚みは若干薄くなるが、そのまま使うことができる。官司の建物のゴミ捨て穴などからは、木簡の削り屑が多量に見つかることがある。すでに削られたとはいっても、いったんは木簡に書かれていた情報である。形の残っている木簡と同様に、削り屑も貴重な研究資料である。
~『律令国家と万葉びと』から抜粋引用
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