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巻第4(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第4-517・518

訓読

517
神樹(かむき)にも手は触(ふ)るといふをうつたへに人妻といへば触れぬものかも
518
春日野(かすがの)の山辺(やまへ)の道を恐(おそ)りなく通(かよ)ひし君が見えぬころかも

意味

〈517〉
 触れたら罰が当たるという御神木にも手を触れる人があるというのに、人妻だからと言うだけで、決して触れられないものだろうか。
〈518〉
 春日野の山添いの道、その恐れ多い道を恐がることもなく通って来られたあなたなのに、近ごろはいっこうにお見えになりませんね。

鑑賞

 517は、大伴安麻呂(おおとものやすまろ)の歌。672年の壬申の乱では、叔父の馬来田(まぐた)、吹負(ふけい)や兄の御行(みゆき)とともに天武側について従軍して功をあげました。天武政権になって後は功臣として重んぜられ、新都のための適地を調査したり、新羅の使者接待のため筑紫に派遣されたりしました。和銅7年(714年)5月に死去した時は、大納言兼大将軍・正三位の地位にあり、佐保に居宅があったため、「佐保大納言卿」と呼ばれました。大伴旅人の父であり、家持の祖父にあたります。そんな安麻呂といえども、人妻には心を乱されたと見えます。道義心と恋情とが激しくせめぎ合うジレンマに陥りながらも、人の妻であっても時には関係をもつこともあるのだ、と自他に言い聞かせているような歌です。果たして彼の許されぬ恋の結末やいかに。

 「神樹」は、神が降りるとして清められている神聖な樹木。当時の人々にとっては、みだりに触れることは祟りを招くほど恐ろしい、絶対的な禁忌の象徴でした。「手は触るといふを」は、(あんなに恐ろしい神木にさえ)実際には手を触れることがあるというのに、という、比較の前提を提示しています。「うつたへに」は、打消しの語を伴って、決して、まったくの意。「触れぬものかも」の「かも」は、単純な疑問と解すれば「触れてはならないものだろうか」の意になりますが、反語とすれば「触れないものか、いや触れるぞ」という意になります。神への恐れよりも人への愛が勝ってしまうという、人間の剥き出しの情熱を歌ったものですが、巻第4-712の「味酒を三輪の祝が齋ふ杉手触れし罪か君に逢ひ難き」のように、神木に触れたために逢えないのか、と詠んだ歌もあります。

 なお、この歌の次に、安麻呂の妻となって坂上郎女を生んだ石川郎女の歌があるので、あるいは安麻呂の歌と贈答の関係にあるのかとも見られますが、この点については518のところで記述します。ところで、安麻呂が、すでに
巨勢郎女との間に旅人・田主・宿奈麻呂の3人の子供をもうけているにもかかわらず、石川郎女と結婚したのはなぜでしょうか。それは、蘇我氏を継承する石川氏と姻戚関係を結びたいとの理由からだったとされます。ライバルの藤原不比等も蘇我(石川)娼子を娶っています。天武天皇の皇子女の多くは蘇我氏の血を引いており、皇室の中でも際立った存在であり、安麻呂は石川郎女との結婚を通じて、石川氏の持つ尊貴性を自家にも取り入れ、皇室と結びつこうとしたのではないでしょうか。そして生まれたのが、稲公坂上郎女です。蘇我氏の血を引く唯一の女子であり、安麻呂は郎女を皇室に嫁がせようと早くから考え、念願かなって穂積皇子に嫁がせることができました。10代後半のころだったとされます。しかし、二人の間に子を授からぬまま、皇子は亡くなってしまいます。

 518は、
石川郎女(いしかわのいらつめ)の歌。石川郎女は、かつては宮廷にその才を謳われた内命婦(自身が五位以上の女官)でした。「春日野」は、奈良の春日山、三笠山のふもとに広がる野で、現在の奈良公園を含む地域。「山辺の道」は、山のほとりの道、山沿いの道。「恐りなく」は、恐れることなく。そう言っているのは、「春日野の山辺の道」が、人目が付きにくい場所もある一方、貴族の往来も多く、密かに通うには緊張感を伴うルートだったからのようです。「通ひし君」の「し」は過去の助動詞。あんなに熱心に通ってきてくれたかつての君を回想しています。「見えぬころかも」は、見えない(来ない)この頃だなあ、という嘆き。「かも」という詠嘆には、寂しさだけでなく、あの情熱はどこへ行ったの?という皮肉や不満も混じっています。「妻問い婚」の時代にあっては、結ばれて夫婦になった後も、待つ身の女にとっては、こうした悩みの種は尽きなかったのでしょう。

 なお、ここの2首が贈答の関係にあるとしたら、安麻呂は人妻である石川郎女に歌を贈ったことになります。石川郎女は安麻呂と結婚する以前、人妻だったのでしょうか。しかし、二人の結婚は持統期に入ってからとされているので、都は飛鳥か藤原にあったことになり、二人もそれらの地かその近辺に住んでいたはずです。ところが、郎女の歌には「春日野の山辺の道を恐りなく通ひし君」とあるので、そんな遠方から通って来たとは考えられません。そうすると、郎女の歌は平城京遷都後の歌ということになりますが、その頃、二人は既に結婚しています。従って、郎女の歌は安麻呂の歌に答えたものではないようです。題詞に贈答を示す記述もなく、単に夫婦ということで2首を並べたものと見られます。
 


大伴家の人々

大伴安麻呂
 壬申の乱での功臣で、旅人・田主・宿奈麻呂・坂上郎女らの父。大宝・和銅期を通じて式部卿・兵部卿・大納言・太宰帥(兼)となり、和銅7年(714年)5月に死去した時は、大納言兼大将軍。正三位の地位にあった。佐保地内に邸宅をもち、「佐保大納言卿」と呼ばれた。

巨勢郎女
 安麻呂の妻で、田主の母。旅人の母であるとも考えられている。安麻呂が巨勢郎女に求婚し、それに郎女が答えた歌が『 万葉集』巻第2-101~102に残されている。なお、大伴氏と巨勢氏は、壬申の乱においては敵対関係にあった。

石川郎女(石川内命婦)
 安麻呂の妻で、坂上郎女・稲公の母。蘇我氏の高貴な血を引き、内命婦として宮廷に仕えた。安麻呂が、すでに巨勢郎女との間に旅人・田主・宿奈麻呂の3人の子供をもうけているにもかかわらず、石川郎女と結婚したのは、蘇我氏を継承する石川氏との姻戚関係を結びたいとの理由からだったとされる。

旅人
 安麻呂の長男で、母は巨勢郎女と考えられている。家持・書持の父。征隼人持節使・大宰帥をへて従二位・大納言。太宰帥として筑紫在任中に、山上憶良らとともに筑紫歌壇を形成。安麻呂、旅人と続く「佐保大納言家」は、この時代、大伴氏のなかで最も有力な家柄だった。

稲公(稲君)
 安麻呂と石川郎女の子で、旅人の庶弟、家持の叔父、坂上郎女の実弟。天平2年(730年)6月、旅人が大宰府で重病に陥った際に、遺言を伝えたいとして、京から稲公と甥の古麻呂を呼び寄せており、親しい関係が窺える。家持が24歳で内舎人の職にあったとき、天平13年(741年)12月に因幡国守として赴任している。

田主
 安麻呂と巨勢郎女の子で、旅人の実弟、家持の叔父にあたる。『万葉集』には「容姿佳艶、風流秀絶、見る人聞く者、嘆せずといふことなし」と記され、その美男子ぶりが強調されている。しかし、兄弟の宿奈麻呂や稲公が五位以上の官職を伴って史書にしばしば登場するのに対し、田主は『続日本紀』にも登場しない。五位以上の官位に就く前に亡くなったか。

古麻呂
 父親について複数の説があり確実なことは不明。長徳あるいは御行の子とする系図も存在するが、『 万葉集』には旅人の甥とする記述がある。旅人の弟には田主・宿奈麻呂・稲公がいるので、古麻呂はこのうち誰かの子であったことになる。天平勝宝期に左少弁・遣唐副使・左大弁の職をにない正四位下となる。唐から帰国するとき、鑑真を自らの船に載せて日本に招くことに成功した。のち橘奈良麻呂らによる藤原仲麻呂の排除計画に与し、捕縛されて命を落とした。

坂上郎女
 安麻呂と石川郎女の子で、旅人の異母妹、家持の叔母にあたる。若い時に穂積皇子に召され、その没後は藤原不比等の子・麻呂の妻となるが、すぐに麻呂は離れる。後に、前妻の子もある大伴宿奈麻呂(異母兄)に嫁して、坂上大嬢と二嬢を生む。後に、長女は家持の妻となり、次女は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の妻となった。家持の少・青年期に大きな影響を与えた。

書持
 旅人の子で、家持の弟。史書などには事績は見られず、『万葉集』に収められた歌のみでその生涯を知ることができる。天平18年(746年)に若くして亡くなった。

池主
 出自は不明で、池主という名から、田主の子ではないかと見る説がある。家持と長く親交を結んだ役人として知られ、天平年間末期に越中掾を務め、天平18年(746年)6月に家持が越中守に任ぜられて以降、翌年にかけて作歌活動が『万葉集』に見られる。

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石川郎女について

 『万葉集』には石川郎女(いしかわのいらつめ)の名の女性が6人登場します(大伴安麻呂の妻・内命婦石川郎女を除く)。

① 久米禅師に求愛され、歌を贈答した女性。~巻第2‐97・98
② 大津皇子の贈歌に対して答えた女性。~巻第2-108
③ 日並皇子(ひなめしのみこ)と歌を贈答し、字を大名児(おおなこ)という女性。~巻第2-110
④ 大伴田主に求婚し拒絶された女性。~巻2-126・128
⑤ 大津皇子の侍女で、大伴宿奈麻呂に歌を贈った女性。~巻第2-129
⑥ 藤原宿奈麻呂朝臣の妻で、離別された女性。~巻第20-4491

 いずれも生没年未詳ですが、②③④の石川郎女が同一人とみられているようです。また、これらの石川郎女と坂上郎女の母である内命婦石川郎女とがどのような関係になるのかも分かっていません。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。