| 訓読 |
庭に立つ麻手(あさで)刈り干し布さらす東女(あづまをみな)を忘れたまふな
| 意味 |
庭に植えた麻を刈り干したり、それを布にしてさらす東国の女だからとて、決してお忘れくださいますな。
| 鑑賞 |
養老3年(719年)に常陸守(按察使を兼任)に任命され赴任していた藤原宇合(ふじわらのうまかい)が、任期を終えて都に帰る時に、常陸娘子(ひたちのおとめ)が贈った歌です。藤原宇合は、鎌足の孫、不比等の子ですから、エリート中のエリートであり、その出世コースの出発点として、27歳の若さで地方政治を司っていたのでした。彼の帰任の時期は確定できませんが、4年ないし6年に及ぶ常陸勤務だったと思われます。そして、いよいよ帰京という時に催された送別の宴、その宴に侍った女性の一人が、遊行女婦(うかれめ)とみられる常陸娘子でした。
「庭に立つ」の「庭」は、作業をする場所を広く指す語で、ここは農家の戸口に近い畑を言っていると見られます。「立つ」は、生い立つ。「麻手刈り干し」は、人の背丈を超えるほどの長い麻を刈り、その束を抱きかかえて運び干す作業のこと。その姿は男女の抱擁を思わせるといい、娘子は、宇合と重ねた甘美な抱擁を思い出しつつ歌ったのでしょうか。自身を「東女」と言っているのは、国守に対しての卑下の気持ちを表しています。斎藤茂吉はこの歌を秀歌に挙げ、「農家のおとめのような風にして詠んでいるが、軽い諧謔もあって、女らしい親しみのある歌である。『東女』と自ら云うたのも棄てがたい」と言っています。
もっとも、このように自分を卑下しつつ、お忘れくださいますなというような表現は、遊女が一夜のなじみになった客を送り出すときに歌う歌の常套的表現であり、こういう歌を宴席で披露されては、宇合も困るはずです。したがって、宴の主役である宇合をわざと困らせるために歌った戯れ歌であると見ることもできます。宴会の歌というものは、そうやって囃し立てて歌い、場を盛り上げるものでしたから、これをもって、軽々に宇合と娘子との関係を論じることはできません。この歌が披露された時の宇合自身の反応はともかく、周りはやんやの喝采だったのではないでしょうか。
娘子(おとめ)と呼ばれ、『万葉集』に秀歌を残している人たちはおおむね卑姓の出身であり、その身分も一様ではありません。どのような生い立ちの女性であるかなども定かでなく、ただ出身国を冠した娘子の場合、その多くは遊行女婦だっただろうといわれています。固有名詞を伴わず「娘子」とだけ記す歌群の場合は、架空の人物で、虚構の歌である可能性も指摘されています。当時は、身分の高い女性のみ「大嬢」とか「郎女」「女郎」などと呼ばれ、その上に「笠」「大伴」などの氏族名がつきました。

藤原宇合の略年譜
694年
藤原不比等の三男として生まれる。初名は「馬養」
716年8月
遣唐副使に任ぜられ、717年に入唐、翌年10月に帰国。
このころ「宇合」に改名。
719年正月
遣唐副使の功により正五位下から正五位上に昇叙。
719年7月
常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任命される。
721年
正四位上に昇叙。
724年4月
式部卿の官職にあったが、蝦夷反乱の平定のため持節大将軍に任命され出兵、11月帰還。
725年
従三位に昇叙。
726年
式部卿のまま、難波宮再建工事の最高責任者である知造難波宮事に任ぜられる。
732年
参議・式部卿として西海道節度使に任ぜられる。
737年8月
平城京に疫病が蔓延、藤原四兄弟(※)の最後に死去。最終官位は参議式部卿兼太宰帥正三位。
※藤原四兄弟
藤原武智麻呂(680~737年)・・・藤原南家の開祖
藤原房前(681~737年)・・・藤原北家の開祖
藤原宇合(694~737年)・・・藤原式家の開祖
藤原麻呂(695~737年)・・・藤原京家の開祖
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