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巻第4(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第4-536

訓読

意宇(おう)の海の潮干(しほひ)の潟(かた)の片思(かたもひ)に思ひや行かむ道の長手(ながて)を

意味

意宇の海の潮が引いた干潟ではないが、片思いのままあの子を慕いながら行くのだろうか、長い旅の道のりを。

鑑賞

 門部王(かどべのおほきみ)恋の歌。左注に「門部王が出雲守に任ぜられたときに管内の娘子を娶ったが、どれほどの時も経たないのに通わなくなった。何か月か後に再び愛しむ心が起こり、この歌を作って娘子に贈った」との注釈があります。「意宇の海」は、現在の島根県の中海で、国庁がこの辺りにありました。上2句は「潟」の同音で、「片思」の「片」を導く序詞。「片思」は、相手からの反応がない、あるいは状況が許さない、一方的な思いを指します。「思ひや行かむ」は、思いつめながら行くのだろうか、という自問自答、あるいは嘆き。「道の長手」の「長手」は、長く延びた道筋で、相手の女の許を訪れる場合の道のりのこと。あるいは、国司として朝集使などの任務で上京する際に娘子のことを思い出して詠んだものだろうとする説があります。『和名抄』には、出雲から都まで上り15日とあります。門部王の出雲在任は、養老3年(719年)以前とされます。

 ちなみに、天平16年(744年)10月の勅令で、国司が所部(管内)の女子を妻妾とすることを禁じています。この歌はその禁令以前の作であり、また妻妾と呼べるほどの関係ではなかったのでしょう。しかし、『万葉集』にはこの種の現地妻との関係を当事者の男女が哀感を込めて詠んだ歌が少なくありません。

 
門部王は、長皇子(ながのみこ:天武天皇の子)の孫で、和銅3年(710年)従五位下、伊勢守、出雲守、弾正尹、右京大夫などを歴任。天平6年(734年)2月に天皇隣席のもとに行われた朱雀門の歌垣では頭を務め、また、「風流侍従」として長田王・佐為王・桜井王ら10余人と共に聖武天皇に仕えました。天平11年(739年)に兄の高安王とともに、大原真人の氏姓をあたえられ、臣籍降下。天平17年(745年)従四位上大蔵卿で没。『万葉集』には5首の歌を残しています。
 


風流侍従

 聖武朝初期に「風流侍従」とと称せられる人たちが存在していたことが、『藤原武智麻呂伝』に見え、六人部王、長田王、門部王、佐為王、桜井王、石川朝臣君子、阿倍朝臣安麻呂、置始工ら8人の名が記されています。ただし、この「風流侍従」は律令制における正式の官の呼称ではなく、聖武天皇の新宮廷に始まった新しい文化である「風流」をリードしていく役割を担っていたとされます。

 神亀6年(729年)に国家的イベントとして催された朱雀門における歌垣において、門部王、長田王がその頭を務めたとの記録が残っています。さらに「風流侍従」の役割としては、歌舞の整備が推し進められるなかで、地方歌舞を宮廷歌舞に取り込むこともあったのではないかともみられています。

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古代の臣籍降下

 律令の規定では、皇族(当時の言葉では「皇親」)の範囲を、歴代の天皇からの直系の代数で規定しており、四世(直系の4代卑属、以下同)までは王あるいは女王と呼ばれ、五世王は皇親とはならないものの王号を有し従五位下の蔭位を受け、六世目からは王号を得られないものとされた(もっとも、慶雲3年(706年)2月の格で変更あり)。そのため、歴代天皇から男系で一定の遠縁となった者は順次臣籍に入るものとされた。

 しかし、平安時代前期の皇室が多くの皇子に恵まれると、規定通りに解釈した場合の四世以内の皇族が大量に発生することになり、しかもそのほとんどが皇位継承の可能性が極めて低い状態になった。また、皇族の中には国家の厚遇にかこつけて問題を起こす者もいた。これらの皇親に対しても律令の定めにより一定の所得が与えられることで財政を圧迫する要因となったため、皇位継承の可能性がなくなった皇親たちは、五世になるのを待たずに、臣籍降下をさせる運用が始まった。特に桓武天皇は一世皇親3名を含む100名余りに対して姓を与えて臣籍降下を行った。嵯峨天皇はじめ、以降の天皇も多くの子女を儲け、その多くが一世で臣籍降下した。

 また、この頃になると、皇族が就任できる官職が限定的になり、安定した収入を得ることが困難になったため、臣籍降下によってその制約を無くした方が生活が安定するという判断から皇族側から臣籍降下を申し出る例もあった。だが、臣籍降下して一、二代ほどは上流貴族として朝廷での地位を保証されたが実際には三代以降はほとんどが没落して地方に下向、そのまま土着し武士・豪族となる例が多かった。

 臣籍降下した元皇族は、新たに氏および姓(かばね)を下賜されて、一家を創設することが多かった(皇親賜姓、こうしんしせい)。一方で、臣下の養子(猶子)となる形で臣籍に降下する例もあった(皇別摂家)。

 なお、臣籍降下に際して、諱については、王号が除かれるのみで改めないのが通常であるが、葛城王(橘諸兄)から諸兄、以仁王から以光などのように改める事例もある。古来は、多様な氏が与えられていたが、平安時代に入ると、源氏および平氏のいずれかを与えるのが常例化する。(~Wikipediaから引用)

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。