| 訓読 |
549
天地(あめつち)の神も助けよ草枕(くさまくら)旅行く君が家に至(いた)るまで
550
大船(おほぶね)の思ひ頼みし君が去(い)なば我(あれ)は恋ひむな直(ただ)に逢ふまでに
551
大和道(やまとぢ)の島の浦廻(うらみ)に寄する波(なみ)間(あひだ)もなけむ我が恋ひまくは
| 意味 |
〈549〉
天地の神々もお助け下さい。旅立つ君が家に帰り着かれるまで。
〈550〉
お頼りしていた君が行ってしまわれたら、私は恋しく思うことでしょう。じかにお逢いする日まで。
〈551〉
大和道の島々の浦のあたりに寄せる波のように、絶え間がありません。私のあなた様を恋する心は。
| 鑑賞 |
神亀5年(728年)に太宰少弐の石川足人朝臣(いしかはのたるひとあそみ)が遷任となり、筑紫国の蘆城(あしき)の駅家(うまや)で送別の宴をした時の歌3首。太宰少弐は、大弐と共に大宰府の次官、従五位下相当官で、定員は2名。石川足人は『続日本紀』に和銅4年従五位下、神亀元年従五位上とあるのみで、太宰少弐に任ぜられたことの記載はなく、ここの遷任が何であったかも分かりません。小野老(おののおゆ)もこのころ少弐で、巻第5の「梅花の歌」32首の中に名を連ねていることから、天平2年(730年)正月ごろまだその任にあったことが分かります。蘆城は、福岡県筑紫野市阿志岐の地で、大宰府の東南約4kmの位置にあります。駅家は、公用で往来する者のために馬を用意し、宿を設けた所。大宰府の官人たちは、しばしばここで遊宴や送別の宴を催したようです。なお、ここの3首の作者はいずれも未詳です。
549の「天地の神も助けよ」の「も」は、詠嘆。「助けよ」は、石川足人が無事であるように守り助け給えの意の呼びかけ。「草枕」は「旅」の枕詞。当時の旅は、海路の危険や疫病など、常に死と隣り合わせでした。だからこそ、具体的で切実な神の加護への要請が、歌の冒頭に置かれています。550の「大船の」は、意味でさまざまの語に掛かる枕詞で、ここは航海を頼む意で「思ひ頼み」に掛かります。「君が去なば」の「君」は、足人。「去なば」は、行ってしまったら(仮定)。「恋ひむな」の「な」は詠嘆を伴う強い推量。「直に逢ふまでに」は、次に直接お会いできるまで。
551の「大和道」は、大和の国へ行く道。筑紫から大和へは、初めと終わり、途中一部が陸路で、ほとんどが海路でした。「島の浦廻」は、島の浦あたり。上3句は、波がひっきりなしに押し寄せる意から、「間もなけむ」を導く譬喩式序詞。「間もなけむ」は、絶え間がなかろう。下の続きからいうと、波のことではなく恋うることで、意味を転じさせています。「恋ひまくは」の「恋ひまく」は「恋ひむ」のク語法で名詞形。恋い慕うであろうことは、という推量。
なお、神亀5年は、大伴旅人が太宰帥として着任したばかりのころであり、巻第6では同じ年に、足人が旅人に「さすたけの大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君」と詠みかけ、旅人から、「やすみしし我が大君のをす国は大和もここも同じとぞ思ふ」との返歌を受けています。あるいはこれも、遷任の餞宴でのやり取りだったかもしれません。

たび(旅)
自らの本来属すべき場所、すなわち、人の魂が最も安定し安らぐ場所である「家・家郷」を離れる状態をいう。『万葉集』には、「旅寝」「旅人」などの複合語を含めると百例を越す用例が見られる他、「羇旅(きりょ)歌」「羇旅作」「羇旅発思」等の題詞や分類標目のもとに、数多くの旅の歌が載せられており、タビは万葉びとにとって、作歌の主要な契機の一つであったことが知られる。それはタビという状況が、非日常の不安定な状況であり、歌によって魂の安定を幻想する必要があったゆえであろう。
古代におけるタビという語の意味領域は、現代の私たちの「旅・旅行」よりもはるかに広かった。「秋田刈る旅の廬に時雨降り」(巻第10-2235)などでは、農作業のために仮小屋に泊まり込むことをタビと呼んでおり、かなり遠方まで出かけることを意味する現代の旅の概念とはかなり異なっていたことを示している。
ただし一方で、「旅と言(へ)ど真旅(またび)になりぬ」(巻第20-4388)と、通常のタビに対して本格的なタビを「真旅」と呼ぶ例も見られ、当時においても、軽微な旅と本格的なタビとを区別する概念はあったようである。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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