| 訓読 |
585
出でて去(い)なむ時しはあらむをことさらに妻恋(つまごひ)しつつ立ちて去(い)ぬべしや
586
相(あひ)見ずは恋ひずあらましを妹(いも)を見てもとなかくのみ恋ひばいかにせむ
| 意味 |
〈585〉
お帰りになる時はいつでもあるでしょうに、わざわざ妻を恋ながら立ち去ることがあってよいものですか。
〈586〉
出逢わなければ苦しむこともなかっただろうに、あなたに逢ってから、無性に恋焦がれています。これから先どうしたらよいのだろう。
| 鑑賞 |
大伴坂上郎女の歌。585は、来客を引き留める歌。「出でて去なむ」は、郎女の許から出て行く意。「時しはあらむを」の「し」は強意の副助詞、「を」は詠嘆の間投助詞で、適当な時があろうものを、の意。「ことさらに」は、わざわざ。「立ちて去ぬべしや」の「や」は反語で、立ち去るべきであろうか、去るべきではない。歌の解釈として、作者に心惹かれつつも帰って行こうとする男を引き留めて詠んだ歌と見る説がありますが、ここの来客は甥の家持で、「妻恋しつつ」の妻とは娘の大嬢を指しているものと解するのが一般的です。従って、家持に対する嫌味とからかいの気持ちが込められています。
586は、題詞に「大伴宿祢稲公が田村大嬢に贈った歌」とありますが、左注には「姉の坂上郎女の作」となっており、歌才の乏しい同母弟の稲公(いなきみ)に代わって作った歌です。田村大嬢(たむらのだいじょう)は、坂上郎女にとって先妻の子、大嬢の異母姉にあたります。「相見ずは」は、逢わなかったならば。「もとな」は、むやみに、しきりに。この歌については、「単調で新味がなく、恋歌に巧みな郎女らしからぬ歌」との評があり、敢えて、いかにも恋に拙い男性の歌という味わいを醸し出したとみられています。姉への信頼と弟思いの姉との関係が窺えて、ほほえましい限りです。また、この代作歌を代作者を明記して載せたのは、この恋が実を結んだことを意味しており、田村大嬢は、後に稲公の妻となりました。

大伴坂上郎女の略年譜
大伴安麻呂と石川内命婦の間に生まれるが、生年未詳(696年前後、あるいは701年か)
16~17歳頃に穂積皇子に嫁す
714年、父・安麻呂が死去
715年、穂積皇子が死去。その後、宮廷に留まり命婦として仕えたか
721年、藤原麻呂が左京大夫となる。麻呂の恋人になるが、しばらくして別れる
724年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁す
坂上大嬢と坂上二嬢を生む
727年、異母兄の大伴旅人が太宰帥になる
728年頃、旅人の妻が死去。坂上郎女が大宰府に赴き、家持と書持を養育
730年 旅人が大納言となり帰郷。郎女も帰京
730年、旅人が死去。郎女は本宅の佐保邸で刀自として家政を取り仕切る
746年、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任
750年、越中国の家持に同行していた娘の大嬢に歌を贈る(郎女の最後の歌)
没年未詳
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大伴坂上郎女の歌風
大伴坂上郎女は、『万葉集』第3期を代表する歌人であり、集中に長歌・短歌合わせて83首もの歌を残した『万葉集』最大級の女性歌人です。額田王と並び称される才女ですが、個人の情念を深く掘り下げた抒情歌や、異母兄の旅人が亡くなった後に見られる、大伴一族の繁栄と和を維持するための「刀自(とじ)」としての公的な歌など、多様で洗練された歌風を確立しました。
郎女の歌風としては、初期万葉の素朴で直情的な抒情から一歩進み、虚構(設定)を交えた情念の表現や、修辞的で技巧的な美しさを備えているのが大きな特徴です。相聞歌においては、激しい恋心や嫉妬、焦燥感を詠みつつも、万葉の言葉の美しさを最大限に活かしての計算された構成が見られます。また、神々を祀る歌や、異母兄・旅人を悼む歌、娘・大嬢に贈る歌など、大伴家の家長的な立場からの品格ある歌も多く残しています。郎女の詠んだ歌の表現や技法は、そのまま甥である大伴家持へと継承され、万葉集の掉尾を飾る第4期の繊細な歌風へと繋がっていくことになります。
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古典に親しむ
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