| 訓読 |
596
八百日(やほか)行く浜の真砂(まなご)も我(あ)が恋にあにまさらじか沖つ島守(しまもり)
597
うつせみの人目(ひとめ)を繁(しげ)み石橋(いしばし)の間近き君に恋ひわたるかも
598
恋にもぞ人は死にする水無瀬川(みなせがは)下(した)ゆ我(わ)れ痩(や)す月に日に異(け)に
599
朝霧(あさぎり)のおほに相(あひ)見し人(ひと)故(ゆゑ)に命(いのち)死ぬべく恋ひわたるかも
| 意味 |
〈596〉
八百日もかかって行くほどの長い浜辺の砂の数だって、私の恋心にまさることがありましょうか、どうでしょう、沖の島守さん。
〈597〉
現実の人の目がうるさいので、飛び石を渡って逢いに行けるほど間近にいますのに、あなたに逢えずにただ恋い慕っています。
〈598〉
恋によってでも人は死にます。水無瀬川の水のように忍ぶ恋の思いから、私は日に日に痩せていきます。
〈599〉
朝霧のようにおぼろげにしかお逢いしないお方なので、私は死ぬほど恋しく思い続けています。
| 鑑賞 |
笠郎女(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った歌29首のうちの4首。596の「八百日行く」の「八百日は、甚だ多い日数を示す表現。「行く」の主語は「八百日」で、時間が経過する、の意。「真砂」は、細かい砂。「あにまさらじか」の「あに」は、どうして、何ぞの意の副詞で、下に否定の語を伴うもの。決して勝らないだろう。「か」は、疑問。「浜の真砂」はそれだけで物の数の多い譬えですが、ここはさらに「八百日行く浜の真砂」といい、わが思いはそれ以上だと、極端な誇張になっています。「沖つ島守」は、沖の島の番人よ、と呼びかけたもので、実際ではなく修辞的虚構であり、「八百日行く浜」と言った縁としての語とされます。恋の審判者に見立てた「島守」にわが思いの共感を求めたとする説、家持への揶揄と見る説があります。
597の「うつせみの」の「うつせみ」は、生きてこの世にある人、転じてまた、世間一般をも言い、「人」にかかる枕詞。「人目を繁み」の「繁み」は「繁し」のミ語法で、人目が多いので。「石橋」は、川の浅瀬に飛び石を置いて橋としたもの。「石橋の」は、その飛び石の間隔が狭いところから「間近き」にかかる枕詞。この時の郎女は、あるいは奈良山近くの家から京に出てきていたのかもしれません。窪田空穂はこの歌に関し、「きわめて普通な夫婦関係にある妻の嘆きと異ならないもので、女郎のもつ尋常な女性としての面を示しているものである。これを上の歌に較べると、心機一転しているがごとくにみえる。思うに前の歌とこの歌との間には、家持の娉いがあり、女郎の心はすっかり和められたものとみえる」と述べています。
598の「恋にもぞ」の「も」は、もまた。「ぞ」は、係助詞。「死にする」はその結びで連体形。「水無瀬川」は、ごろごろとある石の下に水が流れていて、水のないように見える川のことで普通名詞。ここでは「下(目に見えない所)」の枕詞になっており、人目には分からないように内奥でひそかに思い続けている気持ちを表現しています。「月に日に異に」は、月日を追って。状態が刻々とひどくなっていくさまを言っています。
599の「朝霧の」は「おほ」の枕詞。「おほ」は、明瞭でない状態、おぼろげなさまを示す語。歌人の日高堯子は、「単にことばの上の働きばかりでなく、朝霧の中で二人が出逢って別れたような無限的な情景も想像させる。あるいはほんの少しの逢瀬があったばかりに、恋の火がいやさらに燃え上がったのだろうか。女郎の恋は、いわばはじめから成就を望めない、悲劇的な恋であった。だが、悲劇的な恋ゆえに、歌はいっそうの輝きと力を得たともいえようか」と述べています。なお、この歌がこのような位置にあることから、郎女の24首は必ずしも元の順序通りにはなっていないとの見方があります。
笠郎女は、伝未詳。巻第4にある歌群のほか、巻第3-395~397、巻第8-1451・1616にも歌を載せていますが、いずれも家持に贈ったものです。

おほ
オホは、オボロ(朧)、オボメクのオボと同根で、明瞭でない状態、ぼんやりとした様を示す形状言。霞や霧などを比喩として、視覚の不確かさ、不分明さを示すことが多い。また、いい加減なさま、通り一遍なさま、なおざりなさまを示すこともある。
オホホシは、オホから派生した形容詞で、不十分な状態を示すとともに、それを歌い手の不安定な心情、晴れやらぬ思いに結びつける。ここでも霞や霧が比喩に用いられることが多い。オホツカナシも、オホから派生した形容詞だが、やはり対象のぼんやりしたありかたから生ずる不安や頼りなさを示す。オホロカも、やはりオホから派生した形容動詞で、この場合は、いい加減なさま、通り一遍なさまを示すところに意味は限定される。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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