| 訓読 |
608
相(あひ)思はぬ人を思ふは大寺(おほてら)の餓鬼(がき)の後(しりへ)に額(ぬか)づくがごと
609
心ゆも我(わ)は思はずきまたさらに我(わ)が故郷(ふるさと)に帰り来(こ)むとは
610
近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかつましじ
| 意味 |
〈608〉
互いに思い合わない人をこちらで思うのは、大寺の餓鬼の像を、それも後ろから拝むようなものです。
〈609〉
心にも私は思ってみなかったことです。再び故郷に帰って来ようなどとは。
〈610〉
近くにいればお逢いできなくとも耐えられますが、さらに遠くなってしまったので、生きていけそうにありません。
| 鑑賞 |
笠郎女(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った歌29首のうちの3首。608の「相思はぬ人」は、互いに思い合っていない相手。ここでは、笠女郎の情熱に応えてくれない家持を指します。「大寺」は、奈良四大寺の大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺(天平初期には奈良七大寺はまだ揃っていなかった)。「餓鬼」は、仏教による三悪道の第二の餓鬼道に落ちた亡者のこと。欲深の報いとして飢餓に苦しむといい、仏像の足元に踏みつけられた姿があります。「額づく」は、額を地面につけて礼拝すること。最も丁寧な敬意の示し方です。いくら待っても一向に通ってこようとしない家持を強烈に皮肉り、また、自分は、祈願の対象とすべきではない餓鬼の像の後ろから一心にお祈りをするようなことをしていると言って、報われない恋を嘲笑っているかのようです。深刻さを通り越して諧謔めいていますが、その強烈な恨み節には家持もたじろいだのではありますまいか。
斎藤茂吉は、「仏教の盛んな時代であるから、才気の豊かな女等はこのくらいのことは常に言ったかも知れぬが、後代の吾等にはやはり諧謔的に心の働いた面白い」歌と言い、また「女の語気を直接に聞き得るごとくに感じ得る」と言っています。また窪田空穂は、「愚痴をいわず、恨みは、『大寺の餓鬼の後に額づく如し』という譬喩に託したのであるが、きわめて適切な、したがって新しい、類を絶した譬喩というべきである」と評しています。
郎女はこの歌を捨て台詞のように残して、生まれ故郷に帰ってしまいます。あるいは、意に反して帰郷させられたとも言われます。609・610は、その「我が故郷」から贈られたもののようです。609の「心ゆも」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。心から。現代語の「夢にも(思わなかった)」に近い強調表現です。「思はずき」は、思わなかった。「き」は、過去の直接体験を表す助動詞です。「故郷」は、平城遷都後はふつう飛鳥・藤原京の地域をさしますが、郎女の故郷でもあったのか、あるいはもと住んでいた里、郷里の意に使用しているのか、はっきりしません。前の歌(608)の昂奮した口ぶりから一転し、家持に対して抱いている長い間の恨みを総括し、これを言外に置いての言い方をしています。
610の「見ねどもあるを」は、逢わなくても(平気で)いられるものを。「ある」は存在・継続を表し、ここでは「何とか持ちこたえる」というニュアンスです。原文「雖不見在乎」で、訓みはミネドアリシヲ・ミズトモアルヲ・ミズトモアリシヲほか多くの試みが呈示されています。「いや遠く」は、ますます遠く、いっそう遠く。「いまさば」は、居ればの敬語。「有りかつましじ」の「有り」は、生きる、「かつ」はできる、「ましじ」は、後世の「まじ」にあたる古形で、打消推量。上の歌に次いで起こった気持ちを歌っており、いったん見切りをつけたものの、その覚悟が十分でなかったためか、新たな寂しさを痛感しています。大伴家持という貴公子に対し、これほどまでに真っ直ぐ、かつ重い感情をぶつけ続けた女性は他にいません。この歌は、去りゆく男の背中に投げかけられた、執念とも言えるほどに深い愛の呪文のようにも聞こえます。郎女がその後、どのような生涯を終えたのか知るすべもありません。

家持の恋人たち
青春期の家持に相聞歌を贈った、または贈られた女性の顔ぶれは次のようなものです。
大伴坂上大嬢 ・・・巻第4-581~584、727~755、765~768ほか
笠郎女(笠女郎とも) ・・・巻第3-395~397、巻第4-587~610ほか
山口女王 ・・・巻第4-613~617、巻第8-1617
大神女郎 ・・・巻第4-618、巻第8-1505
中臣女郎 ・・・巻第4-675~679
娘子 ・・・巻第4-691~692
河内百枝娘子 ・・・巻第4-701~702
巫部麻蘇娘子 ・・・巻第4-703~704
日置長枝娘子 ・・・巻第8-1564
妾 ・・・巻第4-462、464~474
娘子 ・・・巻第4-700
童女 ・・・巻第4-705~706
粟田女娘子 ・・・巻第4-707~708
娘子 ・・・巻第4-714~720
紀女郎 ・・・巻第4-762~764、769、775~781ほか
娘子 ・・・巻第4-783
安倍女郎 ・・・巻第8-1631
平群女郎 ・・・巻第17-3931~3942
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