本文へスキップ

巻第4(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第4-651~655

訓読

651
ひさかたの天の露霜(つゆしも)置きにけり家(いへ)なる人も待ち恋ひぬらむ
652
玉守(たまもり)に玉は授けてかつがつも枕と我(わ)れはいざふたり寝む
653
心には忘れぬものをたまさかに見ぬ日さまねく月ぞ経(へ)にける
654
相見(あひみ)ては月も経(へ)なくに恋ふと言はばをそろと我(わ)れを思ほさむかも
655
思はぬを思ふと言はば天地(あめつち)の神も知らさむ邑礼左変

意味

〈651〉
 外を見れば、天から降った露が庭の地面に置いています。こんな寒い夜に家にいる人は、あなたを恋しくお待ちしているでしょう。
〈652〉
 大切にしていた玉はそれを守ってくれる人に託して、何はともあれ、私は枕と二人で寝るとしましょう。
〈653〉
 決してあなたを忘れることはないのに、たまたまお逢いできない日々が続き、もうひと月も経ってしまいました。
〈654〉
 お逢いしてからまだひと月も経っていないのに恋しいなどと言ったら、粗忽者とお思いでしょうね。
〈655〉
 思ってもいないのに思っていると口先で言ったとしたら、天地の神様はお見通しのはずです。(「邑礼左変」の訓義未詳。)

鑑賞

 651・652は、大伴坂上郎女が、次女の二嬢を嫁がせた時に、娘の夫である大伴宿祢駿河麻呂(おおとものすくねするがまろ)に贈った歌。駿河麻呂は同じ一族の男で、安麻呂(郎女の父)の兄御行の孫、あるいは安麻呂の子である道足の子、つまり安麻呂の内孫ともいわれています。後代、鎮守府将軍を兼ねた按察使として、武功をもって知られるようになる人物です。郎女も、娘婿として駿河麻呂気に入ったと見え、二人が会った時には、さながら恋人同士のような戯れ歌も交わしています(巻第4-646~649)。

 
651の「ひさかたの」は「天」の枕詞。集中50例ある枕詞で、天・雨・月などにかかりますが、語義・掛かり方とも未詳。「露霜」は、露と霜、または露が凍って霜のようになったもので、冷え冷えとした露を表現する歌語。「家なる人」は、家で待つ人の意で、二嬢を指しています。新婚間もない娘婿に娘のもとに行くことを促している歌です。652の「玉守」は、宝玉を守る者。ここでは玉を二嬢、玉守を駿河麻呂に譬えています。「かつがつも」は、ともかくも、何はともあれ。娘が結婚するまでは娘と枕を並べて寝ていたのに、と、娘を嫁がせた母親の寂寥感を詠んでいます。娘を嫁がせた後の親の心は、古来幾多の親が体験しているものですが、歌として詠まれた例は少なく、これはその代表的なものです。招婿婚の時代とはいえ、女が家刀自として婚家先に入る場合も多かったと見えます。

 653~655は、
駿河麻呂二嬢に心を置いて詠んだ歌。653の「心には忘れぬものを」は、心の中では(決してあなたのことを)忘れてはいないのに。「ものを」は逆接の接続助詞。「たまさかに」は、偶然に、たまたま。「見ぬ日さまねく」の「さまねく」は、日数や回数が多いことを表す「まねく」に接頭語の「さ」が付いたもの。逢わない日が重なって。「月ぞ経にける」は、強意の「ぞ」+「けり」の連体形「ける」による係り結びで、(いつの間にか)月日が経ってしまったのだなあ、という、はっと気づいた時の驚きや、しみじみとした詠嘆が強く表現されています。

 
654の「相見ては」は、お逢いしてから。「恋ふと言はば」は、恋しいと言ったならば。「をそろ」の「をそ」は、軽率、せっかちの意。「ろ」は接尾語。「我れを思ほさむかも」は、私のことをお思いになるでしょうか。655の「思はぬを思ふと言はば」は、思ってもいないのに思っているなどと言ったならば。「天地の神」は、天の神と地の神、すべての神々。「知らさむ」は、お知りになるだろう、ご存知であるはずだ。「邑礼左変」の訓義未詳。
 


「郎女」と「女郎」

 『万葉集』で用いられている上代の女性の呼称には、郎女(いらつめ)、女郎(いらつめ)、娘子(をとめ)等があります。郎女、女郎は、身分の高い女性に用いる敬称で、娘子は一般的な女性の呼称として使われています。また、郎女、女郎は、高官のいる家の女性に対して使われますが、郎女は女郎より高い官位官職の家の女性に用いられています。

【PR】

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。