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巻第4(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第4-688・689

訓読

688
青山(あをやま)を横ぎる雲のいちしろく我(わ)れと笑(ゑ)まして人に知らゆな
689
海山(うみやま)も隔(へだ)たらなくに何しかも目言(めこと)をだにもここだ乏(とも)しき

意味

〈688〉
 青々とした山を横切る白い雲のようにはっきりと私に笑顔を見せて、人には知られないでください。
〈689〉
 海や山を隔てているわけでもないのに、どうしてちょっと逢ってお話しすることさえ滅多にできず、こんなに物足りない思いをするのでしょうか。

鑑賞

 題詞に「大伴坂上郎女が歌七首」とあるうちの2首。すでに夫婦関係は結ばれているものの、まだ秘密にしておくべき時期に夫である人に対して贈ったもの、あるいは家持に対して大嬢の立場をちらつかせたものかとされます。

 
688の上2句は、青山を背景にして際立つ雲の白さから、「いちしろく」を導く譬喩式序詞。青い山と白い雲の色彩コントラストが、隠しようのない鮮明さを強調しています。「いちしろく」は「いと白く」で、はっきりと、著しく。「我れと笑まして」は、私に向かって(にっこりと)微笑んで。「笑ます」は相手を笑わせる、あるいは微笑みを誘い出すニュアンスが含まれます。「知らゆな」の「ゆ」は受身で、「な」は禁止。知られないようにせよ、感づかれないようにせよ、という強い戒めと甘えが同居した表現です。

 
689の「海山も隔たらなくに」は、物理的な距離や大きな障害物があるわけではない、という設定。「何しかも」は、どうして、なぜ。「目言をだにも」の「目言」は、目を合わせること(視線での合図)と、言葉を交わすこと。「だに」は、せめて~ぐらいの意の副助詞。「ここだ」は、こんなに甚だしく。「乏しき」は、不足している、めったにない。ここの「目言」という表現は、とても『万葉集』らしい情緒的な表現です。当時は、人目がある場所では大っぴらに話すことができませんでしたから、ふとした瞬間に視線を合わせる(目配せする)ことや、一言二言の短い言葉を交わすことが、恋人たちにとっての生命線でした。その最低限のコミュニケーションすら断たれている現状に、作者の孤独感が凝縮されています。

 688について、国文学者の
青木生子は次のように評しています。「青山を横切る白雲のようにさわやかな、私に送られる笑み、思わずほほ笑み返しそうになるのを抑えて相手をたしなめる。人に知られてはいけない恋なのだ。相手の愛の行為に内心喜びを隠しきれず、表面ではそれを否定するかたちをとるところに、複雑な曲折した恋愛心理と一種の媚態が生まれている。それはまさしく、額田の『野守は見ずや君が袖振る』に似て、思いきり魅惑的な女歌ならしめようとした郎女の仮構のナルシシズムの世界なのである」。

 また、文学者の
犬養孝は、このような恋歌を詠んだ大伴坂上郎女について、次のように述べています。「この大伴坂上郎女という人は生まれもよく、資質もゆたかに持っていた。そして、それに充分なだけの教養も積んでいる。さらに、自らが歌の修練をしっかりやっている。そういう点をみても、この人は大歌人といえます。そして女流歌人として、第三期から第四期の最も代表的な歌人と言えるでしょう。その上、この人の歌などを見ていますと、恋というものも、素朴な、熱烈な恋ということから、少しずつ貴族社会の社交的なものになっていく匂いも、この人の作品の中には思われます。このことがやがて、初期の万葉から、だんだん平安の方へとつながる要素になるわけです。そういう意味からも、この人の歌の生涯というものは大変意味深いと思います」
 


大伴坂上郎女の略年譜

大伴安麻呂と石川内命婦の間に生まれるが、生年未詳(696年前後、あるいは701年か)
16~17歳頃に穂積皇子に嫁す
714年、父・安麻呂が死去
715年、穂積皇子が死去。その後、宮廷に留まり命婦として仕えたか
721年、藤原麻呂が左京大夫となる。麻呂の恋人になるが、しばらくして別れる
724年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁す
坂上大嬢と坂上二嬢を生む
727年、異母兄の大伴旅人が太宰帥になる
728年頃、旅人の妻が死去。坂上郎女が大宰府に赴き、家持と書持を養育
730年 旅人が大納言となり帰郷。郎女も帰京
730年、旅人が死去。郎女は本宅の佐保邸で刀自として家政を取り仕切る
746年、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任
750年、越中国の家持に同行していた娘の大嬢に歌を贈る(郎女の最後の歌)
没年未詳

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