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巻第4(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第4-718~720・722

訓読

718
思はぬに妹(いも)が笑(え)まひを夢(いめ)に見て心の内(うち)に燃えつつそ居(を)る
719
ますらをと思へる我(わ)れをかくばかりみつれにみつれ片思(かたもひ)をせむ
720
むらきもの心(こころ)砕(くだ)けてかくばかり我(わ)が恋ふらくを知らずかあるらむ
722
かくばかり恋ひつつあらずは石木(いはき)にもならましものを物思はずして

意味

〈718〉
 思いがけずあなたの笑顔を夢に見て、心の中でますます恋い焦がれています。
〈719〉
 ひとかどの男子と思っている私が、こんなにまでやつれ果てて片思いに沈むことになろうとは。
〈720〉
 心も千々に砕けて、これほど私が恋しく思っていることを、貴女は知らずにいるのだろうか、そんなはずはないのに。
〈722〉
 こんなにも恋い焦がれるくらいなら、いっそ石や木にもなればよかったのに。恋に苦しまなくて済むだろうから。

鑑賞

 718~720は、714~717の歌に続き、大伴家持娘子に贈った歌7首のうちの3首。718の「思はぬに」は、思いがけずに、意外なことに。「笑まひ」は、微笑。「燃えつつそ居る」の「つつ」は、継続。「そ」+連体形の「居る」の係り結びとなっており、(他ならぬこの心が)激しく燃え続けているのだという、抑えきれない情熱の強調とともに、じわじわと続く苦しみや、溜息が漏れ続けるような余情を生み出しています。なお、『万葉集』(特に東歌や古い表記)では、濁音の「ぞ」が清音の「そ」と表記されることがよくあります。意味や文法的な役割は「ぞ」と全く同じです。

 
719の「ますらを」は、強く堂々とした立派な男子。感情に振り回されない理想的な男性像。「思へる我れを」は、~と思っていた自分なのに。「かくばかり」は、これほどまでに。「みつれにみつれ」の「みつれ」は、見苦しい、みっともないなどの意味を持つ「みづらし」と同系統の言葉とされ、ここでは、ひどくやつれ果てて、乱れに乱れてといった、理性を失った極限状態を畳みかけるように表現しています。「片思をせむ」は、片思いをするのだろうか。原文「片念男責」で、女々しく片恋に悩む不甲斐なさを責める気持ちを示す義字的用法となっています。自分のカッコ悪さを、正面から突きつけている歌になっています。

 
720の「むらきもの」は「心」の枕詞。「むらきも」は、群がっている肝、いわゆる五臓六腑の中に心がある意で掛けたもの。「かくばかり」は、これほどまでに。「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。「知らずかあるらむ」の「らむ」は現在推量の助動詞で、知らないでいるのだろうか。もどかしさをぶつける表現です。以上7首の歌を贈った相手の「娘子」がいかなる人だったか全く分からず、しかも娘子が答えた歌がないことから、この恋は報われなかったものと見えます。

 
722も恋の嘆きの歌ですが、これも誰に対してのものかは分かりません。「かくばかり恋ひつつあらずは」は、これほどまでに恋い続けていないで済むのなら。「石木にもならましものを」の「まし」は反実仮想(もし~なら・・・だろうに)の助動詞で、石や木にでもなってしまいたいものだ(になれたらよかったのに)。「物思はずして」は、悩み、苦しむこと(物思い)をしないで。「死にたい」と詠む歌は他にもありますが、「石や木になりたい」という表現には、死後の世界すら拒否し、ただ何も感じない存在になりたいという、より深い精神的疲弊と虚脱感が漂っています。
 


ク語法とは

 用言(動詞や形容詞)の語尾に「く(らく)」を付けて、全体を名詞のように扱う表現のこと。主に古典日本語に見られ、「~すること」「~ところ」「~もの」といった意味を表します。「言はく」「語らく」「老ゆらく」「悲しけく」「散らまく」などがその例で、現代語においても「思わく(思惑は当て字)」「体たらく」「老いらく」などの語が残っています。

 ク語法は、中国の漢文を日本語として読む際、名詞節を構成するために重宝されました。荘重で改まった響きを持つため、格調高い歌や祝詞(のりと)などにも多く見られます。名詞化することで、自分の感情を客観的に提示し、それを強調する効果があります。言わば、言葉を「動詞(動くもの)」のままにせず、一瞬止めて「名詞(形あるもの)」として差し出すようなイメージです。

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古典に親しむ

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