| 訓読 |
723
常世(とこよ)にと 我(わ)が行かなくに 小金門(をかなと)に もの悲(がな)しらに 思へりし 我(あ)が子の刀自(とじ)を ぬばたまの 夜昼(よるひる)といはず 思ふにし 我(あ)が身は痩せ(や)せぬ 嘆くにし 袖(そで)さへ濡(ぬ)れぬ かくばかり もとなし恋ひば 故郷(ふるさと)に この月ごろも ありかつましじ
724
朝髪(あさかみ)の思ひ乱れてかくばかりなねが恋ふれぞ夢(いめ)に見えける
| 意味 |
〈723〉
あの世に私が行ってしまうわけでもないのに、門口で悲しそうにしていた我が子よ。留守中に私に代わってつとめる刀自(主婦)のことを思うと、夜も昼も心配で私はやせてしまった。嘆くあまりに着物の袖は涙で濡れてしまった。これほど気がかりでやたらに恋しくては、ここ故郷の跡見の庄には、そう何か月もいられないだろう。
〈724〉
寝起きの髪のように思い乱れて、おねえちゃんのお前が恋しがるからこそ、夢にお前の姿が出てくる。
| 鑑賞 |
大伴坂上郎女が、何某かの用事で出かけて行った跡見(とみ)の庄(たどころ)から、奈良の家に留まっている娘の大嬢に贈った歌。「跡見の庄」は、桜井市外山にあったのではないかとされる大伴氏の田所(たどころ:荘園)。「大嬢」は郎女の長女、後の大伴家持の妻で、この時18歳。なお、左注に「大嬢が奉る歌に報へ賜ふ」とありますが、大嬢が郎女に贈った歌は残っていません。歌の内容からは、ずいぶん寂しがっていた様子が窺えます。郎女としても、18歳とはいえ、娘が家の切り盛りをちゃんとしてくれるか、不安だったようです。
723の「常世」は、ここでは死後の国。「行かなくに」は、行かないことであるのものを。「小金門」の「小」は接頭語、「金門」は門とされるものの、どのような門か未詳。「もの悲しらに」の「もの」は、何となく、という意味の接頭語。「ら」は、形容詞の語幹に付いて情態を示す体言に転ずる接尾語。「思へりし」は、思っていたところの。「我が子の刀自」の「刀自」は、家の主婦。ここでは、母親の留守中、主婦の立場にある相手、すなわち娘の大嬢をこう呼んだもの。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「袖さへ濡れぬ」は、涙で袖が濡れるほどに泣けてくること。「もとな」は、やたらに、みだりに。「し」は、強意の副助詞。「故郷」は、ここでは跡見。「この月ごろ」は、この最近の数か月。「ありかつましじ」の「かつ」は、堪えうる意。「ましじ」は、打消推量の助動詞。全註釈は、この歌を「坂上の郎女の長歌の作品中、しばしば見られる弛緩の弊も無く、よく引き締まっており、第一の傑作と為すべきである」と称えています。
724の「朝髪の」は、朝寝起きの髪は乱れていることから「思ひ乱る」に掛かる枕詞。「かくばかり」は、このようにばかり。「なね」は、弟や妹が姉に対していう呼称を母が用いたもの。「恋ふれぞ」は「恋ふればぞ」で、恋うるからこそ。「夢に見えける」は、相手が強く自分のことを思うと、自らの夢に出るという俗信を踏まえているもの。長歌で母が娘を恋うことを言い、反歌は反対に娘が母を恋うことを言い、それを夢見によって実証しており、窪田空穂は、「展開があり照応があって、緊密に関連させたものである。要を得た反歌というべきである」と評しています。
詩人の大岡信は、この長歌を通じて浮かびあがる娘大嬢の姿には実に可憐なものがある、として、次のように言っています。「彼女は、母が大伴家の荘園にしばらく滞在しに出かける時、門口に立って『もの悲しらに』うち沈んだ表情で見送っている。その様子は、まるで母親が二度と帰ってこないと思っているかのように、うちしおれていたので、母の目にそれが焼き付いた。それが気になって仕方がない母の情がこの一編の長歌のモチーフだが、娘のこうした肖像を描くのに、門口にたたずんでいる印象的な姿だけをとりだしてきたのは坂上郎女の手腕。この単純化によって、歌の中の娘の姿は生彩を放つものになった」。
また、歌人の尾崎左永子は、「母娘ぴったりの、深い絆の感じられるうたである。つねに抑制がほどよく利いていて、しかも才気溢れる坂上郎女にして、母子の情はかくばかり手放しで表出するものかと、意表を衝かれた思いがする。こうも心情的に密着した母娘であるとすれば、大嬢を妻とした家持もさぞたいへんであったろう」と述べています。

大伴坂上郎女の略年譜
大伴安麻呂と石川内命婦の間に生まれるが、生年未詳
16~17歳頃に穂積皇子に嫁す
715年、穂積皇子が死去。その後、宮廷に留まり命婦として仕えたか。
藤原麻呂の恋人になるが、しばらくして別れる
724年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁す
坂上大嬢と坂上二嬢を生む
727年、異母兄の大伴旅人が太宰帥になる
728年頃、旅人の妻が死去。坂上郎女が大宰府に赴き、家持と書持を養育
730年 旅人が大納言となり帰郷。郎女も帰京
731年、旅人が死去。郎女は本宅の佐保邸で刀自として家政を取り仕切る
746年、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任
750年、越中国の家持に同行していた娘の大嬢に歌を贈る(郎女の最後の歌)
没年未詳
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佐保大納言家
「佐保大納言家」は、大伴安麻呂・嫡子の旅人・孫の家持に至る3代の家屋敷であり、家持の時代に当家に起居した人として、家持・妻(妾)・子供・弟の書持、妹や理願尼(新羅人)・石川郎女(石川命婦:安麻呂の妻)・坂上郎女・その娘の坂上大嬢らの大家族が推定されています。
天平3年7月、旅人の亡くなった奈良の家は、安麻呂以来の「大納言大将軍大伴卿」「佐保大納言卿」の家であって、旅人が大宰府に赴任するまでは、旅人の正妻(大伴郎女)や男子の家持・書持らも同居していました。またこの家には、大刀自の石川命婦(安麻呂の妻)が住み、新羅国から来た理願尼が寄住していたことも知られます。
旅人の帰京後、そして彼の亡きあとは、坂上里に家のある坂上郎女が、母の石川命婦の住む佐保大納言卿宅を主な活動拠点とするようになりました。天平7年に理願尼が亡くなった時、石川命婦は有馬温泉に療養中だったため、坂上郎女がひとり大伴卿家にあって葬送を済ませています。石川命婦は大刀自として家事を取り仕切っていたので、娘の坂上郎女は、母といつも同居できる関係にありました。ここの坂上郎女の歌(巻第4-721)や、天平4年(732年)3月1日の「世の常に聞くは苦しき呼子鳥・・・」(巻第8-1447)の歌を詠んだ場所は、この佐保宅であったと考えられています。
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