| 訓読 |
737
かにかくに人は言ふとも若狭道(わかさぢ)の後瀬(のちせ)の山の後(のち)も逢はむ君
738
世の中の苦しきものにありけらし恋にあへずて死ぬべき思へば
739
後瀬山(のちせやま)後も逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日(けふ)までも生(い)けれ
740
言(こと)のみを後(のち)も逢はむとねもころに我(わ)れを頼(たの)めて逢はざらむかも
| 意味 |
〈737〉
いろいろと人は言いますが、若狭道の後瀬山のように、後にきっとあなたとお逢いしましょうね。
〈738〉
世の中は本当に苦しくてならないものなのですね。恋の苦しさに堪えられないで死にそうなことを思いますと。
〈739〉
後瀬山のように、後に逢おうと思うからこそ、死ぬことなく今日まで生きているのです。
〈740〉
言葉だけ逢いましょうと言って、心深く私を頼ませていて、本当は逢って下さらないつもりなのでは。そんなことはないでしょうね。
| 鑑賞 |
737・738は、大伴坂上大嬢が家持に贈った歌。739・740は、家持が答えた歌。737の「かにかくに」は、とやかく、いろいろと。「若狭道」は、中央から今の福井県小浜市に向かう道。「後瀬山」は、福井県小浜市の南にある山。「若狭道の後瀬の山の」の2句は、「後瀬」の「後」を、次の「後」に畳語で掛けるための序詞。大嬢とこの山のつながりは分かりませんが、彼女が実際にこの山を見たとは思われないので、中央に聞こえた山の名を用いたものとされます。「後も逢はむ君」の「のち」には、近い将来だけでなく、来世までも、というニュアンスが含まれています。またこの歌には、730〜731の歌であれほど怯えていた「言の繁き(噂)」に対し、ここでは「勝手に言わせておけばいい」という突き放したような強さが見られます。家持の情熱(732〜734)を受け止め、彼女の心に迷いがなくなったことがわかります。
738の「ありけらし」の「けらし」は「けるらし」の転で、あったことだなあ、という強い気づきの詠嘆。「恋にあへずて」は、恋の苦しさに堪えられなくて。「死ぬべき思へば」は、死んでしまうに違いないと思うと。この歌の魅力は、これまでのお嬢様らしい気高さをかなぐり捨てた、むき出しの感情にあります。737で「人が何を言おうと平気です」と強がってみせたものの、いざ独りになると、逢えない時間の寂しさと募る思いが、彼女を死ぬほどの苦しみに追い込みます。この強がりと弱さのギャップこそが、大嬢という一人の女性のリアリティです。
739の「後瀬山」は、大嬢が737の歌で用いた語を取って、同じく「後」の枕詞としたもの。「思へこそ」は、思えばこそ。「生けれ」は上の「こそ」の係り結びで、已然形。「いつか逢えると信じている、そのことだけが唯一の支えなのだ」という強い断定であり、大嬢が提示した約束を、家持が「私にとってもそれが命綱なんだ」と定義し直しています。「死ぬべきものを」は、大嬢の「死ぬべき思へば」という言葉をそのまま受け、家持も「本来なら死んでしまうはずの苦しさだ」と同意しています。「今日までも生けれ」は、今日まで生き延びてこられた。
740の「言のみを」は、言葉でのみ。「ねもころに」は、心を込めて、丁寧に、の意。「頼めて」は、頼りに思わせて。「逢はざらむかも」の「かも」は、疑問の「か」と、詠歎の「も」。当時の家持は、大嬢の母・坂上郎女という大きな存在もあり、大嬢との仲が正式に認められるか不安な時期にありました。大嬢の「後も逢はむ」という言葉が、あまりに優等生的な「美しい約束」に聞こえたため、口先だけで、本当は僕を見捨てるつもりじゃないのかと、若さゆえの疑念をぶつけてしまったようです。このあとに「更に大伴宿祢家持の、坂上大嬢に贈る歌十五首」と題して、家持の贈歌を一括して載せています。

『万葉集』クイズ
次の歌はいずれも大伴家持の歌です。それぞれの歌の〇の中に当てはまる語を、ひらがなで答えてください。
【解答】 1.なでしこ 2.こころ(心) 3.はねかづら 4.しこ(醜) 5.いめ(夢) 6.みへ(三重) 7.ちびき(千引) 8.をととし 9.あさびらき(朝開き) 10.あぶら
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