| 訓読 |
876
天(あま)飛ぶや鳥にもがもや都まで送り申(まを)して飛び帰るもの
877
人もねのうらぶれ居(を)るに龍田山(たつたやま)御馬(みま)近づかば忘らしなむか
878
言ひつつも後(のち)こそ知らめとのしくも寂(さぶ)しけめやも君いまさずして
879
万代(よろづよ)にいましたまひて天(あめ)の下(した)奏(まを)したまはね朝廷(みかど)去らずて
| 意味 |
〈876〉
空飛ぶ鳥になれたなら、都までお送り申し上げて、飛んで帰ってこれますものを。
〈877〉
私たち一同ががっかりしていますのに、龍田山にお馬がさしかかる頃には、私たちのことをお忘れになってしまわれるのでしょうか。
〈878〉
お別れの寂しさを今は口先であれこれ申していますが、後になって本当に思い知らされるのでしょう、貴方様がいらっしゃらなくなったら。
〈879〉
万年もご健勝でいらして、天下の政(まつりごと)をご立派に司ってくださいませ、朝廷を去られることなく。
| 鑑賞 |
題詞に「書殿(ふみどの)の餞酒(せんしゅ)の日の倭歌(やまとうた)」とある4首。天平2年(730年)10月、大宰帥として筑紫に赴任していた大伴旅人が大納言に昇進し、平城京に帰任することになり、その送別宴で山上憶良が詠んだ歌です。「倭歌」とあるのは、当日の宴では漢詩も披露されたので、わざわざ「倭歌」と記しているものと思われます。文人の旅人の送別会らしく、大宰府の書殿(書院または文書館)で行われていますが、見送り歌はずいぶん拗ねた気分で詠まれています。ただ、憶良一人の作ではなく、数人による作とみる説もあります。
876の「天飛ぶや」は「鳥」の枕詞。「鳥にもがもや」は、鳥であったらいいのになあ。「もがも」は実現不可能な願望を表す終助詞、「や」は詠嘆。「飛び帰るもの」は、(お送りした後にすぐ)飛んで帰ってくるのになあ。「もの」は、ここでは、〜だろうになあ、という反実仮想的な詠嘆を含みます。『文選』蘇子卿「詩四首」の二にある「願ハクハ双黄鵠ト為リテ、子ヲ送リテ俱ニ遠ク飛バンコトヲ」を踏まえているとされます。
877の「人もね」は、語義未詳、あるいは「人みなの」の筑紫の方言か。「うらぶれ居るに」は、悲しみに沈んで、心細く過ごしているというのに。「うらぶる」は心が萎れる、ひどく落胆することを指します。「龍田山」は、生駒連峰の一峰で、難波から奈良に向かう道がある山。大和を象徴する山であり、西から戻ってくる都人の帰京の目途とされていました。「忘らしなむか」の「忘らし」、忘レの敬語。「か」は疑問の終助詞で、お忘れになってしまうのでしょうか。
878の「言ひつつも」は、(口ではいろいろ)言っているけれど。あるいは、あれこれと言い合っているが、の意。「後こそ知らめ」は、本当のことは後になって分かるだろう。「こそ
〜 め(已然形)」の係り結びで、強い確信を表します。「とのしくも」は、語義未詳。「寂しけめやも」の「やも」は反語で、寂しくないはずがあろうか(いや、ひどく寂しいに決まっている)。「君いまさずして」は、貴方様(旅人)がここにいらっしゃらなくて。「いまさず」は「居(を)り」の尊敬語の否定形。
879の「万代に」は、いついつまでも、永遠に。「いましたまひて」は、いらっしゃって。「天の下奏し」は、天下の政事を奏上しで、政事を執る意の成語。「たまはね」の「ね」は、希求の助詞。「朝廷去らずて」は、朝廷を離れずに。国政の中枢へと呼び戻された旅人に対し、その高い地位にあって長く活躍することを、一同や国家の幸福として祈っているもので、「奏す」は天皇に直接物申すことができる限られた高官のみが使える言葉です。旅人がそのような立場にあることを誇りに思い、またその責任を果たしてほしいという、強い願いが込められています。
窪田空穂は、877について、「旅人が道中無事で、京近くまで行った時の楽しい心持を、想像で具象的に描き出したものである。それをするに、後に残される諸人の深いさみしさを絡ませてやすらかに綜合させているのは、非凡な手腕というべきである。儀礼のもので、一種の題詠であるが、いささかもその匂いを見せていない」と評し、878についても、「旅人が居なくなった後に感じる寂莫の感を思いやることによって、その徳望の高く温情の深かったことを讃えて言っている歌である。きわめて要を得た讃え方であるが、同時にきわめて捉えて言い難い境でもある。それを、その事を感じ合っている官人の雰囲気をとおして言うという、実際に即しての詠み方をしているもので、きわめて手腕の現われている歌である」と評しています。憶良の、上司である旅人との交遊は短い期間であったものの、何物にも換えがたい大切な経験だったのでしょう。この歌の次には、同じ席で詠んだ歌3首(巻第5-880~882)が載っています。

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大宰府について
律令制下の7世紀後半、筑前国(福岡県)に置かれた役所。九州と壱岐・対馬を管理し、外敵の侵入を防ぎ、外国使節の接待などに当たりました。長官が帥(そち)で、その下に権(ごん)の帥、大弐、少弐などが置かれました。古くは「ださいふ」といい、また多くの史書では「太宰府」とも記されています。
政庁の中心の想定範囲は現在の福岡県太宰府市・筑紫野市にあたり、主な建物として政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされます。その面積は約25万4000㎡に及び、甲子園球場の約6.4倍にあたります。国の特別史跡に指定されています。
長官の大宰帥は従三位相当官、大納言・中納言クラスの政府高官が兼ねていましたが、平安時代になると、親王が任命され実際には赴任しないケースが大半となり、次席の大宰権帥が実際の政務を取り仕切るようになりました。

(大宰府政庁跡)
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