| 訓読 |
1016
海原(うなはら)の遠き渡りを風流士(みやびを)の遊ぶを見むとなづさひぞ来(こ)し
1017
木綿畳(ゆふたたみ)手向(たむ)けの山を今日(けふ)越えていづれの野辺(のへ)に廬(いほ)りせむ我(わ)れ
1018
白珠(しらたま)は人に知らえず知らずともよし 知らずともわれし知れらば知らずともよし
| 意味 |
〈1016〉
広い海のはるばる遠い海路を、この国の風流人たちの遊ぶさまを見ようと、苦労しながらやって来ました。
〈1017〉
木綿畳を手向ける、その手向けの山(逢坂山)を越えて行き、いったいどこの野辺で今宵は旅寝をしようか、私は。
〈1018〉
真珠は、その真の価値を人に知られない。しかし、世の人が知らなくてもよい。たとえ世の人が知らなくても、自分さえ知っていれば構わない。
| 鑑賞 |
1016は、天平9年(737年)春2月に、大夫たちが左少弁巨勢宿奈麻呂朝臣(さしょうべんこせのすくなまろあそみ)の家に集まって宴会したときの歌。左少弁は、太政官左弁局の判官。巨勢宿奈麻呂は、神亀5年(728年)に外従五位下。天平元年(729年)に、少納言として、舎人親王、新田部親王らと共に、長屋王の罪を糾問した人。『万葉集』には、短歌2首。
左注に「この一首は、白い紙に書いて部屋の壁に掛けた。その題に『蓬莱(ほうらい)の仙媛(やまびめ)が化身した嚢縵(ふくろかずら)は、風流秀才の士のためのものだ。これは凡俗の客の目には見えないだろう』という」旨の記載があり、主人の宿奈麻呂が作ったものとされます。「蓬莱の仙媛」は、常世の国に住む仙姫。「嚢縵」は、日用品を入れる嚢(ふくろ)の形をした縵。「遠き渡り」の「渡り」は、航路。「風流士」は、風流を解する男子。「なづさひ」は、波にもまれ難渋しながら。「ぞ」は係助詞で、「来し」はその結び。憧れの存在である仙姫が、風流才子らの遊ぶさまを見ようと苦労してやって来たといって、集った客人らを喜ばせています。この歌は、神仙思想に関する一資料を提供している点と、歌を白紙に書いて壁にかけ鑑賞する趣味がすでにたったことを示す点が、文化史的に見て興味があるものとされます。
1017は、天平9(737年)年夏4月、大伴坂上郎女が賀茂神社に参拝し、そのまま逢坂山を越え、近江の海を臨み見て、夕方に帰って来て作った歌。逢坂山は、大津市と京都市の境の山。「木綿畳」は、木綿を畳んだ幣帛で、神に手向けることから「手向けの山」にかかる枕詞。「手向けの山」は、旅の無事を祈って手向けをする山のことで、同じ名は諸所にあり、ここは逢坂山のこと。「廬りせむ」の「廬す」は、仮の宿りを作ること。当時の旅は、旅館などありませんから、行く先々で野に廬を結んで宿るのがふつうでした。ここでは、久しぶりの遠出の参詣に、あたかも野宿をしたかのように歌っており、旅愁による、いわゆる文学的虚構と見られています。
窪田空穂はこの歌について、「題材によって見ると、逢坂山から引き返して、夕暮、京都府の平野を望んで、そのどこに宿るのだろうかと心許なさを感じた折の心で、その境はわかる。しかし一首の歌として見ると、郎女の特色の出ていない、いわゆる羈旅の歌の型に倣って詠んだごとき作である。郎女にはその境が支配しきれなかったとみえる」と評しています。
1018は、題詞に「元興寺(がんごうじ)の僧が、自ら嘆く歌」とある歌。元興寺は、はじめ蘇我(そが)氏が飛鳥に法興寺(ほうこうじ)という寺を建て、それが後に元興寺と呼ばれるようになり、さらに平城京遷都後に都に移された寺です。当時の僧はエリート階級であり、なかでも元興寺は、南都七大寺の一つとして朝廷の厚い保護を受けた有力な寺でありました。現在は「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。
この歌は、5・7・7・5・7・7という旋頭歌の形式になっています。天平10年(738年)の作で、左注には、「ある人が言うには、元興寺の僧は独り悟得して智恵も多かったが、それが世間に知られず、人々は侮り軽んじていた。それで、その僧はこの歌を作って自分の才能を嘆じた」との説明があります。白珠(真珠)に託して、自分の真価を正当に評価されない嘆きを歌っています。こうした不満は、いつの世にも、またいかなる分野の人も、多く抱いているもので、本来、寺というところは情実のなかるべき所で、もし高下があるとすれば、それは知能によってのみ定められるべきなのに、そこにも情実が幅を利かせ、知能が公平に認められていないと憤っています。一般に旋頭歌は、前半の5・7・7で謎めいた主題を示し、後半の5・7・7でそれを説明してみせる構造を持ちますが、この歌にはそうした構造は認められず、「しら」「しれ」を頭韻式に反復し、音調に技巧を凝らしています。
この歌について、『ざんねんな万葉集』(岡本莉奈著/飛鳥新社)では次のように述べられています。――「我し知れらば」の「らば」は、「未然形+ば」で、本来は「順接仮定条件」ですが、ここでは、「俺の才能は、自分がちゃんとわかっている」という確定的事実を仮定で表現しています。自己肯定感が高いことはよいことですが、「独りよがり」にはならないように気を付けなければ。ただ、悟りを開いた僧なら、人からの評価に一喜一憂しないはずなので、嘆いている時点でざんねんです。
なお、元の法興寺も残されて「本元興寺」よ呼ばれ、平城京に移された元興寺とともに「飛鳥寺」とも称されました。こうして生じた二つの飛鳥寺について、大伴坂上郎女は「元興寺の里を詠む歌」として、「故郷の飛鳥はあれどあをによし奈良の飛鳥を見らくしよしも」(巻第6-992)という歌を残し、「故郷の飛鳥にある元の元興寺も良いけれど、奈良の新しい元興寺を見るのはとてもすてきだ」と言っています。

神仙思想
古代中国で、不老長寿の人間、いわゆる仙人の実在を信じ、みずからも仙術によって仙人になろうと願った思想。前4世紀頃から、身体に羽が生えていて空中を自由に飛行できる人が南遠の地や高山に住んでいるとか、現在の渤海湾の沖遠くに浮ぶ蓬莱などの三神山に長生不死の人とその薬があるとかいう説があります。燕の昭王や斉の威王、宣王や秦の始皇帝や漢の武帝は、特にそれに心をひかれたらしく、始皇帝は、徐(じょふつ:徐福とも)らの方士に童男童女数千人を伴わせて蓬莱山へ不死の薬を求めに行かせています。この神仙思想が道家思想や五行説と結びついて成立した宗教が、中国3大宗教の一つとされる道教です。日本には仏教や文学書などとともに伝わり、8~9世紀にはかなり流行しました。ただし日本の場合は表面的な不老長生願望がほとんどであり、道との一体化という側面はあまり見られません。
蓬莱山
蓬莱山(ほうらいさん)は、古代中国の神仙思想に登場する伝説の霊山(神仙島)であり、後世の東アジア文化・文学などに多大な影響を与えた象徴的な存在です。中国の伝説では、渤海(ぼっかい)の東方に浮かぶとされる「三神山(蓬莱・方丈・瀛州)」のひとつで、その仙境:には仙人たちが暮らし、不死の薬(仙薬)が存在すると信じられていました。宮殿の建物は金銀で造られ、飛ぶ鳥や獣もすべて白色で、美しい光に満ちた世界として描かれます。秦の始皇帝の命を受けた方士・徐福が、不老不死の薬を求めて東方の「蓬莱山」を目指して船出した伝承は特に有名です。
日本では、神仙思想の伝来とともに「蓬莱」が理想郷やめでたいものの象徴として取り入れられました。文学では、『竹取物語』にかぐや姫が求婚者(車持皇子)に難題として突きつけた「蓬莱の玉の枝」が登場し、『万葉集』でも、
富士山ほかの雄大な高山を仙境・蓬莱に見立てたり、常世の国と結びつけて歌に詠まれたりしました。また、日本庭園の造園技法において、池の中に石を組んで島を作り、蓬莱山に見立てる「蓬莱島」や「亀島・鶴島」が頻繁に用いられました。正月飾りの「蓬莱飾り」など、長寿や繁栄を願うめでたい象徴として現代にも言葉が残っています。さらには、日本国内に、この神話に由来して名付けられた山や景勝地が各地に存在します。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |