| 訓読 |
1028
ますらをの高円山(たかまとやま)に迫(せ)めたれば里(さと)に下り来(け)るむざさびぞこれ
1029
河口の野辺(のへ)に廬(いほ)りて夜の経(ふ)れば妹が手本(たもと)し思ほゆるかも
| 意味 |
〈1028〉
勇士たちが高円山で追い詰めましたので、里に下りてきたムササビでございます、これは。
〈1029〉
河口の野のほとりに仮の宿りをとっていると、夜が更けるにつれて妻の手枕が思い出される。
| 鑑賞 |
1028は、大伴坂上郎女の歌。題詞に次のような説明があります。「天平11年(739年)、聖武天皇が高円の野で狩猟をなさった時に、小さな獣が都の市中に逃げ込んだ。その時たまたま勇士に見つかって、生きたまま捕らえられた。そこで、この獣を天皇の御在所に献上するのに添えた歌。獣の名は俗にむざさびという」。ところが、左注に「まだ奏上を経ないうちに小さな獣は死んでしまった。そのため、歌を献上するのを中止した」。巻第4にも郎女が天皇に献上した歌(721・725・726)がありますが、郎女がどのような立場から天皇に歌を献上しようとしたものかは分かっていません。母の石川郎女と同じように命婦として宮廷に仕えた時期があるのかも不明ですが、731年に旅人が亡くなった後は大伴氏嫡流の大納言家を取り仕切る立場にありましたから、天皇に歌を献上する役割もあったとみえます。
「高円の野」は、奈良市東南部の丘陵地帯。そこに聖武天皇の離宮がありました。「迫めたれば」は、追い詰めたので。「里」は、山地に対しての称。「むざさび」は、ムササビのこと。リス科の飛行型動物で、首から前足、前足から後ろ足にかけて飛膜があり、さらに尾の方にも伸びています。両足を水平に開くと飛膜の幅は50cmほどになり、尾を梶として木から木へと飛びます。この時、坂上郎女ら女官は麓に控えていたようで、逃げ回るムササビに大騒ぎになったといいます。夜行性の動物であるため、突然の狩猟に驚き、梢から滑空して逃げてきたのでしょうか、彼女らの昂奮した嬌声が伝わってくるような一幕です。なお、『万葉集』でムササビを取り上げた歌は3首あります。
1029は、大伴家持の歌。天平12年(740年)8月、太宰少弐の藤原広嗣が、政界で急速に発言権を増す唐帰りの僧正玄昉と吉備真備を排斥するよう朝廷に上表しましたが、受容れられず、9月に筑紫で反乱を起こす事件が起きました。10月、都に異変が勃発するのを恐れた聖武天皇は避難のため東国へ出発し、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国に入り、12月15日に恭仁宮へ行幸、そこで新都の造営を始めました。家持は、内舎人(うどねり:天皇近侍の文官)としてこの行幸に従っていました。
この歌は、河口の行宮(かりみや)で詠んだ歌。河口の行宮は、三重県津市白山町川口の地に営んだ仮宮のことで、聖武天皇はここに10日間留まりました。「廬りて」は、仮の宿をとって。「廬」を名詞にしてイホリシテと訓むものもあります。「手本し」の「手本」は、肘から肩までの部分、「し」は、強意の副助詞。行幸の背後にある事件は当時としては重大でしたが、年若い家持は、10月の夜々の侘しさを実感し、ひたすら素直な気持ちで詠んでいます。

藤原広嗣の乱
天平12年(740年)に、九州地方で起きた反乱。大養徳(大和)守(やまとのかみ)から大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷されたことを不満に思った藤原広嗣(宇合の子)は、対立していた僧玄昉(げんぼう)・吉備真備(きびのまきび)2人を除くことを要求する上表文を提出した。しかし、広嗣は朝廷からの返事を待つことなく、8月末に管轄下の兵を動員して東上を開始。急報を受けた聖武天皇は、全国的に動員をかけ、大野東人(おおののあずまひと)を大将軍とする兵を西下させた。両軍は北九州各地で激戦、敗れた広嗣は五島列島の値嘉島(ちかのしま)からさらに西方へ脱出しようとしたが逮捕され、11月初め処刑された。この乱は聖武天皇の恭仁京・紫香楽宮への遷都の原因となり、また折からの天然痘流行とあいまって、国分寺・東大寺造営の直接の契機となった。
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内舎人(うどねり)
内舎人とは、令(りょう)の規定によると、「内舎人九十人。掌(つかさど)らむこと、刀(たち)帯(は)きて宿衛せむこと、雑使に供奉(ぐぶ)せむこと、若(も)し駕行あるには前後に分衛す」とあり、天皇の側近に侍従し、帯刀して宿直、警備その他の雑事に仕えるものでした。その任官については、毎年、五位以上の貴族の子と孫で21歳になって官職に就いていない者の実態を調べ、12月1日を期限として式部省に出頭させて、その中から選考して任じるものとされていました。ただし三位以上の貴族の子は選考なしで任用されました。
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