| 訓読 |
1034
いにしへゆ人の言ひ来(け)る老人(おいひと)の変若(を)つといふ水ぞ名に負(お)ふ瀧(たき)の瀬(せ)
1035
田跡川(たどかは)の瀧(たき)を清(きよ)みかいにしへゆ宮仕へけむ多芸(たぎ)の野の上に
1036
関(せき)なくは帰りにだにもうち行きて妹が手枕(たまくら)まきて寝ましを
| 意味 |
〈1034〉
これが古来言い伝えてきた、老人を若返らせるという水だ。いかにもその名にふさわしい滝の流れよ。
〈1035〉
養老の滝は清らかだからか、古から天皇にお仕えしていたのだろう、ここ多芸の野に。
〈1036〉
関が無ければ、せめて日帰りにでも行って、恋人の腕を枕にして寝たいものだ。
| 鑑賞 |
天平12年(740年)8月、太宰少弐の藤原広嗣が、政界で急速に発言権を増す唐帰りの僧正玄昉と吉備真備を排斥するよう朝廷に上表しましたが、受容れられず、9月に筑紫で反乱を起こす事件が起きました。10月、都に異変が勃発するのを恐れた聖武天皇は避難のため東国へ出発し、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国に入り、12月15日に恭仁宮へ行幸、そこで新都の造営を始めました。
1034は、行幸に従駕した大伴東人(おほとものあずまひと)が、美濃国の多芸(たぎ)の行宮(かりみや)で作った歌。大伴東人は、天平宝字2年(758年)に淳仁天皇の即位に伴って従五位下となり、同5年武部(兵部)少輔、同7年少納言、さらに宝亀1年(770年)散位助、周防守などを経て同5年に弾正弼
に任じた人。弾正弼は、監察・治安維持などを司る役所である弾正台(だんじょうだい)の四等官の一つ。『万葉集』にはこの1首のみ。
美濃国は、岐阜県南部。多芸の行宮の所在は未詳ながら、養老町に多岐の大字名が残っています。「いにしへゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。「変若つ」は、若返る、元に立ち返る。「名に負ふ」は、その名にふさわしい、有名な。「滝の瀬」は、養老の滝のこと。万葉人は、若返ることを「変若(をつ)」と言い、満ち欠けを永遠に繰り返す月を見て、そこには若返りの水(変若水:をちみず)が存在すると信じていました。しかし、遠い月に行ってそれを得ることはできません。そこで、身近に手に入れることができる場所を各地に求め、その結果、「養老の滝」や「お水取り」など数々の聖水伝説が生まれました。
1035・1036は、同じく従駕の大伴家持が作った歌。1035の「田跡川の滝」は、養老の滝。田跡川は、今の養老川で、養老の滝に発し、揖斐川に注ぎます。「清みか」は、清いゆえにか。「古ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。「けむ」は、推量。1036は、不破(ふは)行宮にして作った歌。「不破」は、岐阜県不破郡垂井町の府中付近とされます。「関」は、不破の関。不破の関は、伊勢の鈴鹿、越前の愛発(あらち)とともに「三関」の一つとされました。不破関の址は、岐阜県の関ケ原町松尾にあり、東山道が近江から美濃へ入る国境近く、両側に山が迫って狭められた交通の要路に位置しています。「帰りにだにも」の「だにも」は、だけでも。「うち行きて」の「うち」は、接頭語。このあと天皇は、近江国を経て山背国の恭仁に至り、ここで突如、遷都の宣言をします。

藤原広嗣の乱
天平12年(740年)に、九州地方で起きた反乱。大養徳(大和)守(やまとのかみ)から大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷されたことを不満に思った藤原広嗣(宇合の子)は、対立していた僧玄昉(げんぼう)・吉備真備(きびのまきび)2人を除くことを要求する上表文を提出した。しかし、広嗣は朝廷からの返事を待つことなく、8月末に管轄下の兵を動員して東上を開始。急報を受けた聖武天皇は、全国的に動員をかけ、大野東人(おおののあずまひと)を大将軍とする兵を西下させた。両軍は北九州各地で激戦、敗れた広嗣は五島列島の値嘉島(ちかのしま)からさらに西方へ脱出しようとしたが逮捕され、11月初め処刑された。この乱は聖武天皇の恭仁京・紫香楽宮への遷都の原因となり、また折からの天然痘流行とあいまって、国分寺・東大寺造営の直接の契機となった。
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