| 訓読 |
1037
今造る久邇(くに)の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし
1038
故郷(ふるさと)は遠くもあらず一重山(ひとへやま)越ゆるがからに思ひぞ我(わ)がせし
1039
我(わ)が背子(せこ)とふたりし居(を)らば山高み里(さと)には月は照らずともよし
| 意味 |
〈1037〉
新しく造られる久邇の都は、山川の清らかさを見れば、ここに君臨なさることはもっともなことだと思われます。
〈1038〉
奈良の旧都は遠いわけではないのに、たった山一つを越えるだけで、こんなに恋しい思いをしている。
〈1039〉
あなたとこうして二人でいれば、山が高くて、この里に月が照らさなくても構わない。
| 鑑賞 |
1037は、大伴家持が、天平12年12月から同16年2月までの間に都とされた恭仁京を讃めて作った歌。「今造る」は、新たに御造営になる。「うべ」は、なるほど、いかにも。「知らす」は、天下を御支配になる意。この歌が詠まれたのは天平15年8月で、大宮の造営に着手したのが同12年12月なので、3年目を迎えてもまだ完成せず、工事中だったようです。しかし、この時に恭仁京の主(あるじ)である聖武天皇は恭仁京にいませんでした。前年の8月に、甲賀郡紫香楽(しがらき)村に離宮が造られ、それ以後はしばしば行幸が繰り返されるようになります。紫香楽宮は恭仁京から東北方約30kmに位置し、南を頂点とする逆三角形の一辺約1.5kmという小さな盆地です。聖武天皇には恭仁京の瓶原(みかのはら)盆地ですら広すぎて落ち着かなかったのでしょうか。この時も天皇は7月26日に紫香楽宮に行幸し、95日間滞在、11月2日にようやく帰還しています。そして、この年の12月に、恭仁京の造営は停止となりました。
家持がこの歌を作った時、紫香楽宮にあって「今造る久邇の都」と歌うことはありえないので、内舎人ではあったものの、留守官橘諸兄らとともに恭仁京に残留していた組だったと見られます。しかし家持は、主のいない恭仁京を、いったいどのような思いで讃えたのでしょうか。なお、恭仁京讃歌には、ほかに巻第6-1050~1058の田辺福麻呂の作、巻第17-3907~3908の境部老麻呂の作があります。
1038・1039は、高丘河内(たかおかのこうち)が、造営中の恭仁京にあって詠んだとされる歌。高丘河内は、百済の公族の子孫で帰化人。養老5年(721年)に教育係として、佐為王、山上憶良などと共に首皇子(のちの聖武天皇)に侍すよう命じられ、東宮侍講となった一人で、聖武天皇即位後に無姓から高丘連に改姓。天平勝宝6年(754年)に正五位下。歌を詠んだこの時期には、恭仁京の宅地班給に当たったり、紫香楽離宮司に任じられているので、土木建築の技能を有していたことが窺われます。『万葉集』には、ここの2首のみ。
奈良京から恭仁京に遷都され、廷臣らは新京に移らなければなりませんが、住居の手配が間に合わず、家族を旧都に残す場合が多くありました。ここの歌もそれをうたっています。1038は、旧都の奈良に残した妻を思った歌。「故郷」は、恭仁京から見た奈良京のこと。「一重山」は、固有名詞ではなく、一重の山の意。「越ゆるがからに」の「からに」は、たった~のゆえに。1039の「我が背子」は、男の友人を親しんで呼んだ語。「二人し」の「し」は、強意の副助詞。「山高み」の「高み」は「高し」のミ語法で、山が高いので。「里」は、作者のいる場所。「よし」は、構わない、ままよの意。

恭仁京遷都の理由
恭仁京遷都の第一の理由は、藤原広嗣の乱にあるとされます。天平10年(738年)、藤原広嗣は、親族を誹謗した罪で大宰府へ左遷されました。そして、天平12年(740年)8月、藤原氏一族の劣勢を挽回しようとして、橘諸兄が重用する僧・玄昉、吉備真備を排斥しようとして上表したものの受け入れられず、大宰府で約1万人の兵を率いて挙兵しました。朝廷は、大野東人を大将軍とする約1万7000人の追討軍を派遣し、筑前の板櫃川で広嗣軍を破り、肥前国値嘉島で広嗣と弟の綱手を捕えて斬殺しました。都に異変が勃発するのを恐れた聖武天皇は避難のため東国へ出発し、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国に入り、恭仁宮へ行幸、そこで新都の造営を始めました。
第二の理由は、疫病の流行とされます。天平9年(737年)の春から筑紫に疫瘡(天然痘)が伝染し始め、夏から秋にかけて大流行し、藤原四兄弟(房前・麻呂・武智麻呂・宇合)が相次いで病死、多くの貴族・民衆が病死するなど、社会不安が広がりました。その後、仏教による国家鎮護の思想が広まり、大仏建立の発願、国分寺・国分尼寺の建立など、この社会不安を沈静化するための政策がとられました。
なお、恭仁京は『万葉集』では「久邇乃京」「久邇京」「久邇乃王都」「久邇乃京師」「久邇能京」「久邇能美夜古」「久邇京都」(いずれもクニノミヤコ)と表記されます。
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遷都の歴史
斉明天皇
655年 難波京(難波長柄豊碕宮)から飛鳥川原宮)へ
656年 飛鳥川原宮から岡本宮(後飛鳥岡本宮)へ
661年 後飛鳥岡本宮から朝倉橘広庭宮へ
天智天皇
667年 朝倉橘広庭宮から近江大津宮へ
天武天皇
672年 近江宮から飛鳥浄御原宮へ
持統天皇
694年 飛鳥浄御原宮から藤原宮へ
元明天皇
710年 藤原京から平城京へ
聖武天皇
740年 平城京から恭仁京へ
743年 恭仁京から紫香楽宮へ
745年 紫香楽宮から平城京へ
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