| 訓読 |
ひさかたの雨は降りしけ思ふ子が屋戸(やど)に今夜(こよひ)は明かして行かむ
| 意味 |
雨よ、降り続いてくれ。そしたら、慕っている人の家に、今夜は明かして帰ろう。
| 鑑賞 |
安積皇子(あさかのみこ)が左少弁(さしょうべん)藤原八束(ふじわらのやつか)の家で宴会をした日に、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持の作った歌。作歌時期は記されていませんが、この前に天平15年(743年)8月26日に詠んだ恭仁京讃歌(1037)があり、次の歌が天平16年正月の作とあるので、8月26日からさほど遠くない頃だと見られます。安積皇子は聖武天皇の皇子で、天平16年2月、17歳の若さで亡くなりました。この歌が詠まれたのはその前年で、家持は、天平10年から16年まで、天皇の近くに仕える内舎人を務めていました。藤原八束は、藤原北家の祖・藤原房前の三男で、この時は28歳、家持は26歳。
「ひさかたの」は「天」の枕詞で、ここは「雨」に転じたもの。集中50例ある枕詞ですが、語義・掛かり方とも未詳。「雨は降りしけ」の「しけ」は、重なり続く意の「しく」の命令形。「思ふ子」の「子」は、広く男女に用いる愛称。ここでは主人の八束を指しているとされ、あるいは接待に出た侍女ではないかとする見方もあります。主客とも若い人たちであり、改まった形の宴ではなかったことから、折からの雨をふまえての、しゃれた座興の歌との捉え方もありますが、目上の八束に対して「思ふ子」というのはあまりに非礼です。そこで、家持が安積皇子に代わって主人・八束への謝意を表したものだろうと説明されます。
安積皇子は、この時、聖武天皇のただ一人の生存する皇子で、その母の広刀自は、左大臣橘諸兄の母族の出身でした。男系相続を建前とする皇位継承の例からいえば、安積皇子が皇太子になるべきところでしたが、光明皇后の娘、阿倍内親王が女性として初めて皇太子に立てられたのでした(後の孝謙天皇)。藤原氏による強引な政権確保の布石だったわけですが、同じ藤原氏の中でも正義派の藤原八束や、傍系王族の市原王、旧大氏族の家持など若い貴族たちは、この年若い皇子に大きな期待を寄せていたことが推定されています。また八束は、母を通じての橘諸兄との血縁関係(八束の母は諸兄の妹)にもありました。

安積皇子
聖武天皇と夫人県犬養広刀自の皇子。天平元年(729年)に、藤原氏が長屋王の変を起こして不比等の娘である光明子を皇后に立てることを強行したのは、その前年にに光明子から生まれて間もない皇太子が亡くなる一方で、安積皇子が生まれたためといわれます。天平10年に阿倍内親王(孝謙天皇)が立太子していましたが、安積皇子は、生存するたった一人の皇子であり、最も有力な皇位継承者でした。しかし、天平16年(744年)閏1月、聖武天皇の難波行幸に従ったものの、脚気のために桜井頓宮(東大阪市六万寺町付近)から恭仁京に引き返し、2日後に死去しました。享年17歳。藤原仲麻呂により暗殺されたとする説があります。
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内舎人(うどねり)
内舎人とは、令(りょう)の規定によると、「内舎人九十人。掌(つかさど)らむこと、刀(たち)帯(は)きて宿衛せむこと、雑使に供奉(ぐぶ)せむこと、若(も)し駕行あるには前後に分衛す」とあり、天皇の側近に侍従し、帯刀して宿直、警備その他の雑事に仕えるものでした。その任官については、毎年、五位以上の貴族の子と孫で21歳になって官職に就いていない者の実態を調べ、12月1日を期限として式部省に出頭させて、その中から選考して任じるものとされていました。ただし三位以上の貴族の子は選考なしで任用されました。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |