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巻第6(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第6-954

訓読

954
朝(あした)には海辺にあさりし夕されば大和へ越ゆる雁(かり)し羨(とも)しも

意味

〈954〉
 朝のうちは海辺で餌を漁り、夕方には大和の方へ超えていく雁たちが、うらやましくてならない。

鑑賞

 膳部王(かしわでのおおきみ)の歌。それまで笠金村や山部赤人の行幸供奉歌を中心とした宮廷歌群の末尾に載せられており、「右は、作歌の年審らかにあらず。ただし、歌の類をもちて、すなはちこの次に載す」との左注があります。「この次」というのは、神亀5年(728年)、聖武天皇が難波宮に行幸された時に笠金村作った歌4首(950~953)の次という意味です。膳部王は長屋王の嫡男で、この翌年に起きた「長屋王の変」で、父の長屋王に連座して、母及び弟たちとともに自害させられた人です。『万葉集』にはこの1首のみ。

 「海辺」は、海の辺りで、あさりをする水際。「あさりし」は、餌をとること。「夕されば」は、夕方になると。「さる」は、移動することを言い表す語で、遠ざかる場合だけでなく、近づく動きについても用います。「大和へ越ゆる」は、奈良(故郷)の方へと山を越えて飛んでいく。「雁し」の「し」は、強意の副助詞。「羨しも」の「羨し」は、うらやましい。「も」は、詠嘆。大和に近い海辺であるので、難波で詠まれたものと見えます。

 なお、作歌年代不明で、行幸供奉歌でも宴席の歌でもない、性格の異なる私的な望郷歌がこの位置に置かれた理由は、左注の説明によっても不十分とされます。次の作以降は
大伴旅人を中心とした歌群となっており、この1首は、いわば宮廷歌群との継ぎ目となる末尾に据えられているものです。これについて、国文学者の吉井巌は、巻第6の冒頭部が、長屋王を太政官の筆頭とする時代の作歌の一群であることから、編者は、巻第6を聖武天皇の始まりという展望のもと、その第一段階を長屋王主導の時代と捉え、その意識のあらわれが、この一群の末尾に膳部王を置くという処置になったのであろう、と述べています。あるいは長屋王、膳部王ほか一族への強い追悼の気持ちが込められているのかもしれません。
 


長屋王の変

 長屋王(ながやのおおきみ)は高市皇子の長男で、天武天皇の孫にあたります。元明・元正天皇に重用され、藤原不比等が没した後に右大臣に、また、聖武天皇が即位すると、正二位左大臣に昇任しましたが、藤原不比等の息子である藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)氏が、妹の光明子立后を画策。これに対し、当時「皇后は皇族であるべき」という慣例があり、皇族の長屋王はこれに反対して対立。すると、729年に「長屋王が密かに要人を呪詛して国を倒そうと謀っている」との密告がなされ、長屋王は弁明も許されず、家族とともに自害させられました。妃の吉備をはじめ、膳部王・桑田王・葛木王・鉤取王ら幼少の命も絶たれましたが、同じ子ながら、安宿王・黄文王・山背王らは許されました。彼らは不比等の娘、多比等との間にできた子だったからです。

 長屋王の排除により、光明子の立后が実現、藤原氏の朝廷での権力は強固になりました。しかし事件後の737年、その前年から都に流行した天然痘によって藤原四子が相次いで死亡したため、人々は「長屋王の怨霊の祟り」だと恐れました。天皇は、長屋王の遺児である安宿王・黄文王ら5名を昇叙、これらの叙位は長屋王の霊を鎮めるための施策であったろうと推定されます。また、光明皇后の発願による736年の一切経(五月一日経)の書写事業も、長屋王に対する罪滅ぼしであった可能性が指摘されています。光明皇后は、一時期、旧長屋王宅に住んだこともありました。なお、後に、長屋王を陥れた告発が虚偽であったと公に認定されました。 

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『万葉集』における「大和」の表記

 『万葉集』において「大和」という地名・国名がどのように表記されているかは、当時の漢字の受け入れ方や、のちの「大和」定着への過渡期を示す非常に興味深いテーマです。『万葉集』に登場する「やまと」の表記は、大きく分けると「一字一音の万葉仮名(音訓表現)」と、「美称を冠した地名表記(訓読表現)」の2つの系統に分類されます。特に注目すべき代表的な表記パターンを整理しました。

  1. 主な表記パターン
    ●夜麻登
     一字一音の万葉仮名(音仮名)「夜(や)」「麻(ま)」「登(と)」をそのままあてた、最も標準的な表音表記。
    ●倭
     「ヤマト」を指す一字表記(正訓字)中国の歴史書に由来する文字ですが、当時の人々はこれ一文字で「やまと」と訓読しました。
    ●大倭
     「倭」に美称の「大(おほ)」を冠したもの国家としての偉大さや誇りを表現する際に使われます。のちの「大和」の直接の先祖にあたる表記です。
    ●日本
     「日の本(ひのもと)」ではなく「やまと」と読ませる例7世紀末から8世紀初頭(天武・持統朝〜大宝律令期)にかけて「日本」という国号が成立していく中で、『万葉集』内でもこれを「やまと」と訓読する例が現れます。
  2. 「大和」という表記はあったのか?
     結論から言うと、現在の私たちが日常的に使っている「大和」という漢字2文字の組み合わせは、集中の原文には基本的に登場しません。当時(8世紀中頃まで)は、主に「倭」や「大倭」が使われていました。これが現在の「大和」に完全に統一されるのは、『万葉集』の編纂(759年頃に最後の歌)から少しあとの時代、天平宝字7年(763年)に「諸国の国名は好字(縁起の良い漢字)2文字で表記せよ」という公的な命令(好字二字令の定着期)が出されて以降のことです。この時、「大倭」の「倭」が、同音でより意味の良い「和」に置き換えられ、現在の「大和」が定着しました。
  3. 『万葉歌』における表記の使い分けの妙
     『万葉集』の大きな魅力は、歌人や編纂者が「その土地をどう捉えていたか」によって漢字を使い分けている点にあります。たとえば、叙情的な文脈・私的な歌では、 「夜麻登」と言葉の響きをそのまま五七調に乗せており、国家的・儀礼的な文脈では 「倭」「大倭」「日本」を使い、文字そのものが持つ政治的・文化的な重みや、中央政府としてのアイデンティティを誇示しています。このように、「やまと」という一言に対してこれほど多様な文字が当てられていることは、古代日本語が文字(漢字)を獲得し、独自の表記体系を洗練させていくダイナミックなプロセスをそのまま写し取っていると言えます。
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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。