| 訓読 |
975
かくしつつ在(あ)らくを良(よ)みぞたまきはる短き命(いのち)を長く欲(ほ)りする
976
難波潟(なにはがた)潮干(しほひ)のなごりよく見てむ家なる妹(いも)が待ち問はむため
977
直越(ただこえ)のこの道にしておしてるや難波(なには)の海と名付(なづ)けけらしも)
| 意味 |
〈975〉
こうしているのが楽しいからこそ、短い命であっても、少しでも長く続いてほしいと願うのだ。
〈976〉
難波潟の潮干のなごりのさまをよく見ておこう。家にいる妻が待っていて、あれやこれや尋ねるだろうから。
〈977〉
生駒をまっすぐ越えていくこの道においてこそ、昔の人は、押し照る難波の海と名付けたのだろう。
| 鑑賞 |
975は、中納言・安倍広庭(あべのひろには)卿の歌。安倍広庭は、右大臣・阿倍御主人(あべのみうし)の子。聖武天皇即位の前後に従三位に叙せられ、神亀4年(727年)に中納言に任ぜられた人で、長屋王政権下で順調に昇進を果たしました。旧豪族として、至難な人生であったと推定されるものの、終始藤原氏と政治的行動を共にした人であったようです。天平4年(732年)2月に74歳で死去。『万葉集』には4首の歌があります。
この歌は、宴席での駕の歌とされます。「かくしつつ」は、このようにして。「かく」が何を指すのか不明ですが、酒宴のたのしさを、人の命の短さを惜しむ心に結びつけて言っていると見るのが自然です。「在らく」は「在る」のク語法で名詞形にしたもの。「良み」は、形容詞「良し」の語幹に「み」のついたミ語法。良いので。「たまきはる」は、霊(霊力・生命力)が極まる意で「命」にかかる枕詞。「欲りする」は、動詞「欲り」と「する」が結合した語で、上の「ぞ」の係り結び(連体形)。
976・977は、天平5年(733年)、神社忌寸老麻呂(かみこそのいみきおゆまろ:伝未詳)が、草香山を越えたときに作った歌。草香山は、生駒山の西側の一帯、東大阪市日下町付近の山地。河内の日下から見た生駒山の俗称とする説もあります。
976の「難波潟」は、難波の浜の干潟。「潮干のなごり」は、潮が引いた跡に残る魚介や海藻、水たまり。ただし一方で、それがそんなに感動すべき景であったとは思えないとの理由から、潮が満ち始めて一面に照り輝き出し、潮干の時の姿がわずかに残っている状態と見る説もあります。「家なる」は、家にある。
977の「直越の道」は、平城京から西に向かい、生駒山を越えて難波へ出る道。神武天皇の伝説や雄略記にも「日下之直越道(くさかのただこえのみち)」とあり、暗(くらがり)峠、辻子(ずし)越、善根寺(ぜんこんじ)越などが残っているものの、正確にどの道とも定まりません。「おしてるや」は、隈なく照る意で、「難波」に掛かる枕言葉。「けらしも」は「けるらし」の約で、「らし」は、確信的推定。~にちがいない。「も」は、詠嘆。

大阪府(摂津・河内・和泉)について
大阪府は、むかしの国名でいえば摂津の東部と河内・和泉の3国にあたり、万葉故地は奈良県についで多く、同一地名も延て(以下同じ)約120をかぞえる。和泉が泉北郡地方を主としてほぼ12、河内が国府付近・生駒山西面付近を主として約15に対して摂津東部は大阪市(もとの難波)を中心として約190におよんでいる。いまの大阪城付近から住吉区の南辺にかけてのいわゆる上町台地には北西辺に難波(なにわ)の御津(みつ)があり、南西辺には住吉(すみのえ)の御津があって、「難波」の名だけでも約60、「住吉」の名が約40をかぞえるほどである。
難波は古くからの大和朝廷の外港であって、半島・大陸の先進文化はほとんどここを通じて流入していた。外客はここからはいり、西航するのもここを出発地とした。水陸交通の要点であることはもちろん、対外の交渉点であり、古代文化の黎明のいとぐちとなる地であった。
したがって首都となることもしばしばで、応神朝の大隅(おおすみの)宮、仁徳朝の高津(たかつの)宮、孝徳朝の難波長柄豐碕(ながらのとよさき)宮、聖武朝の難波宮(天平16年一時遷都)がおかれた。難波宮の址は、・・・東区法円坂一帯の台地に定まったといってよい。高津宮・豐碕宮には諸説あるが、これも同地と見られている。万葉の時代を通じて、帝都でないときも、宮地は保たれ、あるいは修築されて、たびたびの行幸をみている。
大阪府に万葉の故地の多いのも当然のことだが、上町台地東方、淀川・旧大和川の水域による変化をはじめ、地形の変動がはげしく、こんにち故地の明らかでないところが多い。
~『万葉の旅・中』犬養孝著/平凡社から引用
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