| 訓読 |
士(をのこ)やも空(むな)しくあるべき万代(よろづよ)に語り継ぐべき名は立てずして
| 意味 |
男子たるもの、このまま空しく世を去ってよいものか。いつのいつの代までも語り継がれるほど立派な名を立てないまま。
| 鑑賞 |
左注に、「山上憶良が重病となった時、藤原朝臣八束(ふじわらのあそみやつか)が河辺朝臣東人(かわべのあそみあずまひと)を使者として容態を尋ねに来させた。憶良は返事を終え、しばらくして涙をぬぐい、悲しみ嘆いて、この歌を口ずさんだ」とある歌です。藤原八束は北家房前の子で、この時19歳。房前が大伴旅人と親交があったことは巻第5-810~820で知られますが、その子の八束が使者を立てて見舞ったことから、藤原北家と旅人・憶良との親密な関係が窺えます。あるいは、若い八束は、憶良を尊敬し師事していたのかもしれません。
「士やも」の「士」は、ヲトコと訓む説があります。ヲノコ説が有力ですが、ヲコトは男子、立派な男子、ヲノコは侍者、従者の意になりゆく語という解釈もあり、決定は難しいとされます。「や」は、反語。「空しくあるべき」は、上掲のような解釈のほか、無為に過ごしてよいものか、あるいは、国歌に対して事功のない意で言っていると解するものもあります。「名」は、名声。憶良は、もはや再起の出来難いことを覚悟していたものと思われ、国文学者の土橋寛は、13歳から16歳までの大学の課程を終えた藤原八束が、憶良を教師として招いていたものと推定し、次のように述べています。「『孝経』の”身ヲ立テ道を行ヒ、名ヲ後世ニ揚ゲ、以テ父母ヲ顕スハ孝ノ終リ也”の教えに従うことのできなかった臨終の心情を吐露するものであると同時に、教え子である八束に対して、この教えを実現してほしいとの願いをこめたもの」。
大宰府に赴任していた憶良は大伴旅人に後れて奈良に帰京し、その翌年に、74歳で没したと推定されています。従ってこの歌は天平5年(733年)の作、つまり彼の死の直前の歌であり、生涯最後となった一首です。「口吟此歌」とあるので、この時憶良は既に筆を執ることもできず、筆録したのは河辺東人だったのでしょう。それが八束に伝えられ、のち橘諸兄宅で同席したことのある家持の手に渡り、『万葉集』に残されたものと考えられています。それまでも死を恐れ、生に執着してきた憶良ですが、この辞世の歌ともいうべき歌においても、徹底した執念が感じられます。
憶良が亡くなった時の官位は従五位下・筑前守でしたから、貴族社会での地位は高いとは言えず、自身が思っていたような官吏としての出世は果たせなかったのでしょう。さらに、漢文学の素養が深かった憶良としては、中国の士大夫(したいふ)思想、つまり名を立てるこそが男子の理想像だと考えていたのかもしれません。歌にある「士」は、中国では志を持って徳行を積んだ人のことで、憶良のそうした高いプライドも窺えます。しかし、最終官位こそ高くはなかったものの、大歌人としての彼の名はその後今に至るまで語り継がれ、憶良を知らない人はいないはずです。「語り継ぐべき名」は、十分すぎるほど立てています。
明くる天平6年正月、聖武天皇は宮中に五位以上を集めて宴を賜わりましたが、憶良の姿はもはや無かったことでしょう。

山上憶良の略年譜
701年
第8次遣唐使の少録に任ぜられ、翌年入唐。この時までの冠位は無位
704年
このころ帰朝
714年
正六位下から従五位下に叙爵
716年
伯耆守に任ぜられる
721年
東宮・首皇子(後の聖武天皇)の侍講に任ぜられる
726年
このころ筑前守に任ぜられ、筑紫に赴任
728年
このころまでに太宰帥として赴任した大伴旅人と出逢う
728年
大伴旅人の妻の死去に際し「日本挽歌」を詠む
731年
筑前守の任期を終えて帰京
731年
「貧窮問答歌」を詠む
733年
病没。享年74歳
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