| 訓読 |
988
春草(はるくさ)は後(のち)はうつろふ巌(いはほ)なす常盤(ときは)にいませ貴(たふと)き我(あ)が君
989
焼太刀(やきたち)の稜(かど)打ち放ち大夫(ますらを)の寿(ほ)く豊御酒(とよみき)に我れ酔(え)ひにけり
990
茂岡(しげをか)に神(かむ)さび立ちて栄えたる千代松(ちよまつ)の木(き)の年の知らなく
991
石走(いはばし)りたぎち流るる泊瀬川(はつせがは)絶ゆることなくまたも来て見む
| 意味 |
〈988〉
春草は、どんなに生い茂ってものちには枯れてしまいます。どうか巌のようにいつまでも末永く元気でいて下さい、貴い我が父君よ。
〈989〉
焼いて鍛えた太刀のかどを鋭く打って、雄々しい男子が祈りをこめる立派な酒に、私は酔ってしまった。
〈990〉
茂岡に神々しく立って茂り栄えている千代松が何歳になるのか、見当もつかない。
〈991〉
岩の上を激しくほとばしり流れ続ける泊瀬川、絶えることなくまたやってきて見よう。
| 鑑賞 |
988は、市原王(いちはらのおおきみ)の「宴に父安貴王(あきのおほきみ)を祷(ほ)く」歌。市原王は天智天皇5世の孫で、志貴皇子または川島皇子の孫、安貴王の子。天平15年(743年)に従五位下、写経司長官、玄蕃頭、備中守、金光明寺造仏長官、大安寺造仏所長官、造東大寺司知事、治部大輔,摂津大夫、造東大寺司長官など、主に仏教関係事業の官職を歴任し正五位下に至りました。『万葉集』に8首の短歌を残し、大伴家持との関係をうかがわせる歌も多くあります。生没年未詳。
「うつろふ」は、ここでは衰え枯れる意。「巌なす」は、そびえ立つ大岩のように。「常磐」は、常に変わらない大きな岩。ここでは永久に変らないこと。「いませ」は「いる」の敬語で、命令形。「貴き我が君」は、父を尊み親しんでの呼びかけ。親にはいつまでも元気でいてほしいというのは、古今変わらぬ子の願いです。移りやすい春草と不滅の巌とを対比させて父親の健勝を賀すこの歌には、市原王の深い愛情と優しさが感じられます。窪田空穂はこの歌について、「何の技巧も用いていないが、調べとしては、二句で切り、四句で切り、『貴き我が君』と名詞をもって結んで、荘重なものとしている」と述べています。一人っ子だったとされる市原王は、親への愛情がひときわ強かったのかもしれません。なお、兄弟姉妹のいない寂しさをうたった歌が、巻第6-1007にあります。
989は、題詞に「湯原王(ゆはらのおおきみ)の打酒の歌」とあり、酒を打つとは、飲酒に先立って刀で悪霊を切り払う呪法かと言われますが、「打酒歌」は、酒宴の歌の意であるとの見方があります。「焼太刀」は、火で焼き鍛えた太刀。「稜打ち放ち」の「稜」は、刀の鎬(しのぎ)の部分。「打ち放ち」の具体的動作ははっきりしていません。一説には、勢いよく抜き放った刀を振って、よい発酵を願うような行為ではなかったかとも言われます。「寿く」は、祝う。「豊御酒」は、酒を讃えての称。「我れ酔ひにけり」は、謝酒の慣用句。神祭りに酒を捧げ、神事の後にその酒を神とともに頂く(直会:なおらい)のが、本来の日本人の酒の飲み方だったといわれます。ここでは酔いの楽しさを詠んでいますが、例の少ないものです。
湯原王は、天智天皇の孫、志貴皇子の子で、兄弟に白壁王(光仁天皇)・春日王・海上女王らがいます。天平前期の代表的な歌人の一人で、父の透明感のある作風をそのまま継承し、またいっそう優美で繊細であると評価されており、家持に与えた影響も少なくないといわれます。白壁王が聖武天皇の皇女(井上内親王)を妻として位階を進め、即位の約1年半後には、皇后や皇太子を廃して獄死させているのと比較すると、王は、人間らしい風雅の道を選んだらしくあります(一生無位だったともいわれます)。生没年未詳。『万葉集』には19首。
990・991は、紀鹿人(きのかひと)の歌。紀鹿人は、大伴家持の恋人だった紀女郎の父。天平12年(740年)に外従五位上。『万葉集』には3首。990は、「跡見(とみ)の茂岡の松の樹」の歌。「跡見」は、桜井市東方の地。巻第8-1560に大伴坂上郎女の「跡見田庄にて作れる歌」があり、大伴氏の領地であったと知られる地です。「茂岡」は、木々の茂る岡、または地名。「神さび」は、神々しく。「千代松」の「千代」は千年で、松の樹齢とされていました。「知らなく」は、知られないことよ。尊い老末に寄せて大伴氏を祝ったものかもしれません。
991は、「泊瀬川の河辺に来て作った」歌。「泊瀬川」は、桜井市の東方、初瀬渓谷に発し、三輪山の南を流れ、佐保川に合流するまでの川。「石走り」は、石の上や石の間を走って。「たぎち流るる」は、激しく流れる。「絶ゆることなく」は、「泊瀬川」と「またも来て見む」の両方に掛かっています。

『万葉集』クイズ
【解答】 1.児島 2.第15巻 3.第17~20巻 4.第10巻(539首) 5.筑紫歌壇 6.賀茂真淵 7.柿本人麻呂 8.高市黒人 9.聖武天皇 10・広島県
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