| 訓読 |
997
住吉(すみのえ)の粉浜(こはま)のしじみ開けも見ず隠(こも)りてのみや恋ひわたりなむ
998
眉(まよ)のごと雲居(くもゐ)に見ゆる阿波(あは)の山かけて漕ぐ舟 泊(とま)り知らずも
999
千沼廻(ちぬみ)より雨ぞ降り来(く)る四極(しはつ)の海人(あま)網手(つなで)乾(ほ)したり濡(ぬ)れあへむかも
1000
児(こ)らしあらば二人(ふたり)聞かむを沖つ渚(す)に鳴くなる鶴(たづ)の暁(あかとき)の声
1001
大夫(ますらを)は御猟(みかり)に立たし娘子(をとめ)らは赤裳(あかも)裾(すそ)引く清き浜廻(はまび)を
1002
馬の歩(あゆ)み押さへ留(とど)めよ住吉(すみのえ)の岸の黄土(はにふ)ににほひて行かむ
| 意味 |
〈997〉
住吉の粉浜のしじみが殻を閉じているように、私は思いをを打ち明けることもせず、じっと胸中に秘めたまま恋い続けることだろうか。
〈998〉
長い眉のように、はるか雲の向こうに横たわる阿波の山々。そこに向かって漕いでいく舟は、今夜はどこに泊まるのか分からないけれども。
〈999〉
茅渟の浜あたりから雨が降ってくる。ここ四極の漁夫が網は干したままだ。濡れても構わないのだろうか。
〈1000〉
ここにあの子がいたら、二人して聞くことができように。沖の浅瀬で鳴く鶴の明け方の声を。
〈1001〉
廷臣たちは狩をしにお発ちになり、官女らは赤い着物の裾を引きながら、きれいな浜で海の物を求めている。
〈1002〉
馬の歩みを抑えて止めなさい。ここ住吉の岸の美しい埴生に存分に染まっていこうではないか。
| 鑑賞 |
天平6年(734年)春の3月、聖武天皇の難波行幸に際し、従駕した人たちが詠んだ歌。『続日本紀』によれば、3月10日(太陽暦の4月17日)に京を発ち、約1週間難波宮に滞在したとあります。
997の作者は未詳。「住吉の粉浜」は、現在の大阪市住吉区周辺の海岸。当時は美しい砂浜が広がる景勝地でした。「しじみ」はシジミ貝のことで、水中にあっては殻を開けているところから「開け」と続け、それを心を打開ける意の「開け」に転じて序詞としたもの。「開けも見ず」は、心を打明けることもせずに。「隠りてのみや」は、内に閉じこもったままでいようか(いや、いられない)。「恋ひわたりなむ」は、恋し続けてしまうのだろうか。「〜わたる」は動作が続くことを表し、「なむ」は強い確信を伴う推量。
998は、船王(ふねのおおきみ)の歌。船王は、舎人皇子の子、淳仁天皇の兄。「眉のごと」は、山の形を、美人の整った「眉」に例えた比喩。当時の中国文学の影響を受けた表現です。「雲居に見ゆる」は、雲の集まっているあたり(遠方)に見える。空の果てに、山が浮かんでいるような様子を指します。「阿波の山」は、現在の徳島県にある山々。難波の海上から紀伊水道を隔てて望む、遠くのシルエットを指しています。「かけて漕ぐ舟」は、(あの山を)目指して漕いでいく舟。「泊り知らずも」は、停泊する場所を知らないことよ。
999・1000は、守部王(もりべのおおきみ)の歌。守部王は、舎人皇子の子。999の「千沼廻」は、茅渟(ちぬ)の海の湾曲した入り江。現在の大阪湾から和泉沿岸にかけての海域。「雨ぞ降り来る」は、左注に、天皇住吉の浜を遊覧されての還御の途中、にわか雨にあったとあるので、そのことを言っていると取れます。「四極」は、現在の大阪市住吉区付近にあったとされる地名。「網手」は、地引き網を引くための綱。「濡れあへむかも」は、濡れてしまうことだろうか。
1000の「児らしあらば」の「ら」は親愛の接尾語、「し」は強意の副助詞。「二人聞かむを」は、二人で聞いたであろうに。実際には一人で聞いているという寂しさを強調しています。「沖つ渚」は、沖の方にある砂州。「鳴くなる鶴」は、鳴いているという鶴。「なる」は、聞こえてくる音に基づいた推定・伝聞の助動詞。
1001は、山部赤人の歌。「大夫」は、供奉の廷臣を尊んでの称。「御猟」は、天皇の御猟であるため尊んで言ったもの。「立たし」は「立つ」の敬語。「娘子ら」は、女官ら。「浜廻」は、浜辺。行幸に供奉していた男女が、楽しく長閑に過ごしている風景を、眼前の女官たちを主にして歌っています。窪田空穂は、「『赤裳裾引く清き浜廻を』に感性の冴えが見え、それがおのずから賀の心をあらわしていると言える。間接ながら個性の際やかに現われた歌である」と評しています。
1002は、安部朝臣豊継(あべのあそみとよつぐ)の歌。安部朝臣豊継は、『続日本紀』ほかに天平9年外従五位下より従五位下を授くとある人。「馬の歩み押さへ留めよ」は、馬の歩みを抑えて止めてくれ。同行者や馬を引き連れる者への呼びかけです。「黄土」は、埴生、つまり赤みを帯びた黄色い土(粘土)のことで、住吉の岸辺に露出していた、色彩鮮やかな土層を指します。「にほひて行かむ」は、(その色に)染まって行こう。「にほふ」は現代語の「匂う」ではなく、視覚的に鮮やかに色づく、美しく照り映えることを意味します。

行幸について
万葉の時代に行われた行幸のうち、天平15年(743年)に聖武天皇が恭仁宮から紫香楽宮に行幸した際に、五位以上が28名、六位以下が2370名随行(当時の用語では「陪従」と呼ぶ)したと『続日本紀』天平15年4月辛卯条に記されています。また、奈良~平安時代にかけての他の行幸でも、1000名以上の随行が確認できるものが複数確認できるため、天皇の行幸となると、2000名ほどの陪従者が発生したのではないかと考えられています。
行幸に際しては、律令官人たちは、天皇に随従する「陪従」と、宮都を守護する「留守」を務めるものとされ、特に前者は功労として位階の授与が与えられる場合があったといいます。また、公式令には中国の例に倣って天皇の行幸時には皇太子が監国を務めて留守を守ることを前提とした条文がありますが、史書で確認できる行幸では皇太子が陪従している場合がほとんどで、皇親や議政官が「留守官」に任じられて天皇の留守中の宮都の管理を行っていたようです。また『延喜式』太政官式には、天皇が出発する数十日前からの行幸の準備について細かく規定が定められています。
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